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ロッキー・ジョンソン(Rocky Johnson、本名:Wayde Douglas Bowles、1944年8月24日 - )は、カナダ・ノバスコシア州出身の元プロレスラー。生年は1941年、出身地はアメリカ合衆国ニューヨーク州と紹介されることもあった〔『THE WRESTLER BEST 1000』P181(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 ソウルマン(Soulman)の異名を持つベビーフェイスの黒人スターとして、西海岸、南部、中西部、WWFなどアメリカ各地の主要マーケットで活躍。バネのある身体から繰り出す華麗な空中殺法で人気を博し、ドロップキックの名手として知られた〔。 義父(妻の父)はピーター・メイビア、息子はプロレスラーで俳優のザ・ロック。2008年にはWWE殿堂に迎えられた。 == 来歴 == 1964年にデビュー後、トロントのメープル・リーフ・レスリング、カルガリーのスタンピード・レスリング、バンクーバーのオールスター・レスリングなどカナダ各地を転戦。バンクーバーでは1967年4月3日、ドン・レオ・ジョナサンと組んでクリス・トロス&ジョン・トロスを破り、NWAカナディアン・タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。1969年11月にはトロントのメープル・リーフ・ガーデンにて、ビッグ・サカこと坂口征二とも対戦した。 その後、アメリカ西海岸に進出し、ロサンゼルスでは1970年1月16日、グレート小鹿からNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取。以降もフレッド・ブラッシーを相手にタイトルを争った〔。同年9月、日本プロレスに初来日し、第1回NWAタッグ・リーグ戦にアーニー・ラッドとの強力黒人コンビで出場。両者のサイズとファイトスタイルの相違点がBI砲と通じていたことから(ラッド=ジャイアント馬場、ジョンソン=アントニオ猪木)、「黒いBI砲」として優勝候補の筆頭と期待された〔『世界名レスラー100人伝説!!』P180、P182(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。チームワークに難があり、決勝進出は果たせなかったものの、得意のドロップキックを武器に、スピーディーでキレのいいファイトを披露して大会を盛り上げた〔〔。 1971年からはサンフランシスコを主戦場に、後に義父となるピーター・メイビアとのタッグチームで活躍、パット・パターソン、スーパースター・ビリー・グラハム、ザ・ブルート、ラーズ・アンダーソンらと抗争した。フェイスターン後のパターソンとはタッグも組み、サンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を再三獲得、1973年11月6日にはキンジ渋谷&マサ斎藤を破り、同王座への4回目の戴冠を果たした。 1974年よりアメリカ南部に参戦、ジョージアでは同年12月6日、バディ・コルトからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取。アブドーラ・ザ・ブッチャーとも同王座を賭けた黒人同士の抗争を展開した。1975年はフロリダを主戦場に、7月31日にJ・J・ディロンからNWAフロリダTV王座を、同月および12月23日にはボブ・ループとカーティス・イヤウケアからNWAフロリダ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取している。 同年からはセントルイスのキール・オーディトリアムの定期戦にも再三出場し、ジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座やハーリー・レイスのNWAミズーリ・ヘビー級王座に挑戦する一方、ディック・ザ・ブルーザーやウイルバー・スナイダーとタッグを組み、ニック・ボックウィンクル、ブラックジャック・ランザ、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベーカー、バリアント・ブラザーズなど、AWAやWWAのヒールとも対戦した。 1976年はテキサスの東部地区で活動、ダラスではホセ・ロザリオをパートナーに、3月3日にスタン・ハンセン&キラー・ブルックスからNWAテキサス・タッグ王座を奪取。日本でアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦が行われた6月25日(アメリカでの現地時間)には、ヒューストンでのクローズドサーキット興行にてテリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。同年はテネシーのミッドアメリカ地区にも参戦し、11月1日にメンフィスにてジェリー・ローラーを破り、NWA南部ヘビー級王座を獲得した。 1977年よりフロリダに戻り、同年4月にブルーノ・サンマルチノを破りフロリダに乗り込んできたスーパースター・ビリー・グラハムのWWWF世界ヘビー級王座に、8月から9月にかけて連続挑戦。9月19日にはペドロ・モラレスと組んでパット・パターソン&イワン・コロフからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取。1978年にかけてはKKKギミックのキラー・カール・コックスを相手に遺恨試合を繰り広げ、テリー・ファンクからハーリー・レイスに移動したNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。 1980年1月、当時フロリダ地区との提携ルートを持っていた新日本プロレスに10年振りの再来日を果たす。1月6日の東京・福生大会にてアントニオ猪木とのシングルマッチも実現したが、バッドニュース・アレンと組んでの北米タッグ王座挑戦を目前に控えた試合(2月5日の愛知県体育館における、スタン・ハンセンと組んでの猪木&ストロング小林とのタッグマッチ)において、ハンセンのウエスタン・ラリアットの誤爆を受け負傷し、翌日のタイトル戦を欠場〔。これが最後の来日となった。日本とも縁の深いアメリカのメジャーテリトリーで活躍したにもかかわらず、売れっ子で多忙だったこともあり来日回数はわずか2回と少なかった。 1980年下期からはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にて活動。スウィート・エボニー・ダイヤモンド(Sweet Ebony Diamond)なる覆面レスラーに一時的に変身し、マスクド・スーパースターとマスクマン同士の抗争を展開。スーパースターのフェイスターン後は彼やリッキー・スティムボート、ブラックジャック・マリガンらと共闘し、ジミー・スヌーカ、レイ・スティーブンス、ボビー・ダンカン、アイアン・シークなど、悪党マネージャーのジン・アンダーソン率いるヒール軍団と抗争、アメリカ再修行中の天龍源一郎やキム・ドクとも対戦した。1981年4月29日にはトーナメントの決勝でグレッグ・バレンタインを破り、空位となっていたTV王座を獲得している。 1982年は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングにて、アイスマン・キング・パーソンズをパートナーに、スタン・スタージャック、バディ・ローズ、マット・ボーン、デビッド・シュルツ、ディジー・ホーガンらと抗争。4月には同地区をサーキットしていたリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦し、7月15日にはリップ・オリバーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取した。 1983年にニューヨークのWWFに参戦し、ドン・ムラコが保持していたインターコンチネンタル・ヘビー級王座に再三挑戦。同年8月より、トニー・アトラスとの黒人タッグチーム「ソウル・パトロール(The Soul Patrol)」を結成、11月15日にワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取している。翌1984年に始まったWWFの全米侵攻サーキットにおいても、同王座を巡りディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションと抗争劇を展開した。王座陥落後も、WWFには1985年上期までベテランのベビーフェイスとして出場し、ロディ・パイパー、ポール・オーンドーフ、カウボーイ・ボブ・オートン、ジェシー・ベンチュラ、ビッグ・ジョン・スタッド、ケン・パテラ、ニコライ・ボルコフらヒール勢と各地で対戦した〔。 WWF離脱後は、義父のピーター・メイビアの未亡人リア・メイビアが再興したハワイのポリネシアン・パシフィック・レスリングにて主力レスラー兼ブッカーとして活動。1987年には、かつて主戦場の一つとしていたテネシーのCWAに登場し、7月6日にビル・ダンディーとのコンビでポール・ダイヤモンド&パット・タナカのバッド・カンパニーからCWAインターナショナル・タッグ王座を奪取。これが現役最後の戴冠となり、以降は1990年代初頭まで、プエルトリコのWWCや古巣フロリダのインディー団体にゲスト出場していた。 引退後は2003年上期に、WWEのファーム団体OVWのトレーナーを務めていた〔。2008年3月にはピーター・メイビアと共にWWE殿堂に迎えられている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロッキー・ジョンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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