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ロドニー・クレイン・カルー(Rodney Cline Carew、1945年10月1日 - )は、パナマ運河地帯出身の元メジャーリーグベースボール選手(二塁手、一塁手)。右投げ左打ち。ミネソタ・ツインズ、カリフォルニア・エンゼルスでプレー。首位打者7回、15年連続で打率3割の「安打製造機」。 == 経歴 == 1945年10月1日、パナマ運河地帯を走る列車の中で母が突然産気づき、たまたま乗り合わせていた医師、ロドニー・クラインのおかげでなんとか出産できた。彼の本名は、その医師の名前にちなむ。17歳の時にニューヨークに移住。当時はニューヨーク・ヤンキースの黄金時代であり、それを見て野球に興味を持ち始めたという。 にミネソタ・ツインズと契約し、4月11日にメジャーデビュー。1年目は137試合に出場し、打率.292、8本塁打、51打点で新人王に輝く。3年目のにはビリー・マーチンが新監督に就任し打撃も向上。打率.332で初の首位打者となり、からは4年連続で首位打者となる。は2厘差でジョージ・ブレットにタイトルを奪われたものの、・は再び2年連続で首位打者となった。特に1977年は注目され、前半戦を終わって.394の高打率を維持。のテッド・ウィリアムズ以来の4割打者誕生なるかと期待されたが.388に終わった。しかし自己最高の14本塁打、100打点を挙げアメリカンリーグのMVPを受賞した。 に二塁から一塁にコンバートされる。には4対1のトレードでカリフォルニア・エンゼルスに移籍。8月4日に史上16人目の通算3000本安打を達成。同年限りでエンゼルスを自由契約となり、移籍先を探し、一時は興味を持つチームもあったが契約には至らず、翌シーズン中に現役引退を発表した。 引退後はからまでエンゼルス、からまでミルウォーキー・ブルワーズで打撃コーチを務め、ティム・サーモンやジム・エドモンズらを育てた。に野球殿堂入り。背番号29はツインズとエンゼルスの両チームで永久欠番となっている。 1995年9月に娘のミッシェルが白血病と診断された。骨髄移植のドナーを探したものの見つからず、翌1996年4月に18歳で亡くすという悲劇があった。 2002年に古巣のツインズとエンゼルスが戦ったリーグチャンピオンシップシリーズでは始球式を務めた。 2004年1月19日、故郷パナマの「エスタディオ・ナシオナル」が「エスタディオ・ナシオナル・ロドニー・カルー」に改称された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロッド・カルー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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