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ロニー・ピーターソン : ウィキペディア日本語版
ロニー・ピーターソン

ベンクト・ロニー・ピーターソンBengt Ronnie Peterson, 1944年2月14日 - 1978年9月11日)はスウェーデンエーレブルー生まれのF1ドライバー。名字は母国語での発音に基づき「ペテルソン」「ペターソン」「ペタソン」などと表記されることもある。
オーバーステアを好み、激しいテールスライドを多用するダイナミックな走りながらも素晴らしいマシンコントロールで自由自在に操りつつ驚異的な速さを誇った、スウェーデンが生んだ当代最速のレーサー。ジル・ヴィルヌーヴなどその華麗な走りに魅了された者も多く、「Super Swede(スーパー・スウェード)」、「サイドウェイ・ロニー」等とも呼ばれた。
== プロフィール ==
アマチュアレーサーだったパン屋の息子として生まれる。カートレースで名を馳せ、1968年、1969年にスウェーデンF3を連覇。その才能が新興コンストラクターのマーチの目に留まり、1970年にはF2に参戦しつつ、マーチよりF1デビューを果たす。
1971年にはF2のヨーロッパチャンピオンを獲得。F1では2位4回を含め5度の表彰台獲得という活躍を見せ、この年のチャンピオンであるジャッキー・スチュワートに次ぐ選手権2位となった。亡きヨッヘン・リントなどと同等の、F1界屈指の速さを持つドライバーという評価を得る。1972年はマシン開発の混乱により3位表彰台1回のみと足踏みする。
1973年ロータスに移籍したピーターソンは才能を開花。フランスGPで初優勝を達成すると、エースドライバーのエマーソン・フィッティパルディを凌ぐ速さをみせ、ポールポジション9回・優勝4回を獲得して選手権3位となる。
1974年はフィッティパルディの移籍によりロータスの主力になったが、この頃より良いマシンに恵まれない不運がつきまとうようになる。新車ロータス・76の失敗により旧型のロータス・72を使い続けることになり、この年は3勝して選手権5位と踏ん張ったものの、1975年は13位に終わる。
1976年ロータス・77の出来に失望し、開幕戦後にチームを離れてマーチに復帰した。マーチでは1勝するも選手権11位と低迷。皮肉にもピーターソンの離脱後、ロータスは復調の兆しを見せ始める。
1977年にはティレルへ移籍し、6輪車P34のステアリングを握る。前年に1勝したマシンだったが、タイヤ開発問題のために戦闘力が失われており、3位1回以外は目立った活躍を見せられず、選手権14位に終わった。
1978年に再びロータスへ加入し、マリオ・アンドレッティと共に本格的グラウンド・エフェクト・カーであるロータス・79をドライブした。チーム内では同格扱いだったものの、実際はフォードエンジンやグッドイヤータイヤといったアメリカ系サプライヤーの強い要望により、アンドレッティのチャンピオン獲得が第一目標とされていた(アンドレッティはイタリア系アメリカ人)。アンドレッティにはマシンの優先権や予選用スペシャルタイヤが与えられており〔、この年記録した4度のワンツーフィニッシュはいずれも優勝アンドレッティ、2位ピーターソンという結果だった。ドイツGPではスタートでピーターソンがトップに出たが、チームオーダーによりアンドレッティが先行を許された。
ピーターソンは無用に競り合うことなくチームの勝利に貢献し、アンドレッティが落としたレースをものにすることでシーズン終盤までチャンピオン争いを展開した。オランダGPの時点で、翌年にマクラーレンへの移籍の契約を済ませていたという。
残り3戦、アンドレッティから12点差で迎えたイタリアGPでは、スタート直後に発生した多重接触事故に巻き込まれ、マシンが激しくクラッシュして炎上した。マシンから引き出されたピーターソンは両脚に重度の骨折を負っていたものの、普通に会話ができる状態で、命に別状はないと思われた(この事故の直後に、担架に乗せられたピーターソンが手を動かしていたり、救護員と会話している映像が残っている)。その後、ミラノの病院に搬送され、骨折した骨を元の位置に固定する手術を受けた〔『F1一瞬の死 F1専属医が見た生と死の軌跡』、52頁。〕。手術は成功し、レース後病院に駆けつけたロータスの総帥コーリン・チャップマンやアンドレッティはホテルに帰った。
しかし、翌9月11日未明に容態が急変し死亡した。。骨折部位より血管に流れ出た脂肪粒が肺・腎臓・脳の血管に詰まり、血液循環を阻害する脂肪塞栓症が命取りになった〔『F1一瞬の死 F1専属医が見た生と死の軌跡』、55-56頁。〕。
ピーターソンの死によりアンドレッティのチャンピオンが決定。その後、ピーターソンのポイントランキングも抜かれることなく、選手権2位が確定した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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