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ロバート・パーキンス・レッチャー(、1788年2月10日 - 1861年1月24日)は、19世紀アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、第15代ケンタッキー州知事および同州選出アメリカ合衆国下院議員を務めた。ザカリー・テイラー大統領のときに駐メキシコ公使を務めた。ケンタッキー州では下院議員を務めており、1837年と1838年には下院議長を務めた。ホイッグ党の強い支持者であり、ヘンリー・クレイやジョン・クリッテンデンとは親友だった。 レッチャー家は1800年頃にケンタッキー州に入植した。ロバートはジョシュア・フライの私立アカデミーで学んだ後に法律を学んだ。米英戦争のときはジョン・アレンの志願民兵隊で、短期間だが法務官だった。1813年にゲアリド郡を代表してケンタッキー州議会下院議員になったのが政歴の始まりだった。1823年、アメリカ合衆国下院議員に選ばれ、10年間以上を務めた。1824年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・クインシー・アダムズとヘンリー・クレイの仲介役を務めた。アダムズの対抗馬アンドリュー・ジャクソンが選挙をリードしていたが、レッチャーの交渉により、クレイがアメリカ合衆国国務長官に指名されることと引き換えにアダムズを支持することで合意した。 1840年、レッチャーはケンタッキー州知事選挙でウィリアム・オウスリーを抑えてホイッグ党公認候補となった。選挙では民主党のリチャード・フレンチに対して大勝で当選した。レッチャーの財政的に保守的な政策によって、ケンタッキー州は1837年恐慌の財政危機から立ち直ることができた。知事の任期が終わるまでにケンタッキー州は歳入超過となり、州認定銀行は正金の支払いを再開した。知事退任後、ザカリー・テイラー大統領から駐メキシコ公使に指名された。その後、アメリカ合衆国下院議員に復帰しようとしたが、民主党のジョン・ブレッキンリッジのために敗れた。ヘンリー・クレイの出身選挙区でレッチャーが敗北したことは、ケンタッキー州におけるホイッグ党の力が衰えていることを示していた。レッチャーは政界で活動を続けたが、公職を求めることはなかった。レッチャーは1861年1月24日に死んだ。 == 初期の経歴 == ロバート・パーキンス・レッチャーは1788年2月10日に、バージニア州グーチランド郡で生まれた〔Congressional Biography〕。父はスティーブン・ジャイルズ・レッチャー、母はベッツィ(旧姓パーキンス)であり、その12人の子供では7番目だった〔Heck in ''Kentucky's Governors'', p. 55〕。1800年頃、一家はケンタッキー州に移転した。最初はハロズバーグに、その後ゲアリド郡に入植した〔Gilliam, p. 6〕。レッチャーは暫くの間地域の公立学校に通っていたが、手に負えないという理由で放校になった〔Morton, p. 13〕。父のレンガ工場で石造建築術を学んだが、あまり熱心ではなかった〔。 レッチャーはダンビル市近くにあったジョシュア・フライの私立アカデミーに入学した。これは公立学校に行くよりもフライの教えに従えばうまくいくと考えたからであり、健全な教育を受けることができた〔〔Harrison, p. 545〕。フライのアカデミーでの指示に従って、父のレンガ工場に戻り、伝説に拠ればその時に後にケンタッキー州知事になるトマス・メトカーフと共に、初代ケンタッキー州知事公舎建設に関わったとされている〔。その後、ハンフリー・マーシャルの事務所で法律を学び、法廷弁護士として認められ、ランカスターで法律実務を始めた〔Powell, p. 40〕。米英戦争の時に短期間ではあるが、ジョン・アレンの志願民兵隊で、法務官を務めた〔。 レッチャーは先ずメアリー・オーデン・エップスと結婚した〔NGA Bio〕。エップスは1816年3月9日に死に、子供は生まれなかった〔。最初の妻の死後に、シャーロット・ロバートソンと結婚した。シャーロットは、州議会議員で後にケンタッキー州控訴裁判所判事となったジョージ・ロバートソンの姉妹だった〔。歴史家のジェニー・モートンは、レッチャーが2番目の妻のことを「女王」と言っていたと記している〔。この結婚でも子供が生まれなかったが、姪の1人を子供の時から育てた〔Morton, p. 15〕。シャーロット・レッチャーは夫より長生きし、1879年10月29日に死んだ〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・P・レッチャー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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