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ロブロ・フォン・マタチッチ : ウィキペディア日本語版 | ロヴロ・フォン・マタチッチ
ロヴロ・フォン・マタチッチ(Lovro von Matačić クロアチア語発音 , 1899年2月14日1985年1月4日)、ユーゴスラビア出身の指揮者。日本で特に親しまれた指揮者の一人である。 == 生涯 == クロアチア北西部の港町スシャク(Sušak。当時はクロアチア・スラボニア王国(ハンガリー王国)モドルシュ・フィウメ県(Modrus-Fiume)、のちにハンガリー王国の重要な海港であるリエカ市の一部〔リエカ#ハプスブルク家支配〕)に生まれる。 17世紀初頭に貴族に叙された家系で、軍人や役人を輩出してきた。9歳の時、ウィーン少年合唱団に入団、その後、ウィーン音楽アカデミーとウィーン市立音楽院で学ぶ。1918年、ケルン歌劇場の副指揮者を皮切りに1933年にはザグレブ歌劇場の第1指揮者、1938年にはベオグラード歌劇場の音楽総監督を歴任し、ヨーロッパ各地のオーケストラ、歌劇場に客演した。その間の1936年には初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。しかし、第二次世界大戦中はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンに反抗し、親独・親ナチ主義者として活動、大戦後もチトーに反対し続ける態度を取ったため、投獄され死刑を宣告される。その死刑当日に収容所所長にピアノを弾くことを命令され、それを聴いた所長が「芸術家を死刑にするのは忍びない」と処刑だけは免れた(ちなみに、マタチッチ夫人はこの所長の愛娘であるが、他に3人いたと言われている)。ただ、「ナチ協力者」のレッテルは剥がし難く、しばらく活動停止を余儀なくされた。1954年ごろから活動を再開、1956年にドレスデン国立歌劇場、1961年にはフランクフルト市立歌劇場音楽総監督に就任した。1959年にはバイロイト音楽祭で「ローエングリン」を振る。また、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団との結びつきや後述する日本との縁も深くなる。1970年には故郷ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者(1982年まで。後に終身名誉指揮者)、1974年から5年間はモンテカルロ歌劇場音楽総監督に就任。この頃から体調を崩し始め、また巨躯がたたって歩行困難となる。1984年にNHK交響楽団とプラハの春国際音楽祭に出演後実質活動を停止し、1985年1月4日にザグレブで亡くなった。 その実力に比して、録音の数は決して多いとは言えないが、近年はALTUSレーベルから、NHK交響楽団を指揮した演奏会のライヴ録音が継続的にリリースされている。意外なところではレハールの「メリー・ウィドウ」の名録音を残しており、今に至るも代表盤の一つに数えられている。
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