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ロベルト・アロマー・ベラスケス(Roberto Alomar Velázquez , 1968年2月5日 - )はMLBで活躍した元野球選手。二塁手。右投両打。プエルトリコ出身。父はサンディー・アロマー・シニア、兄はサンディー・アロマー・ジュニア。 == 略歴 == 、兄が所属するサンディエゴ・パドレスに入団。4月22日にメジャーデビューし、レギュラーに定着。当時父のシニアもコーチとしてチームに所属しており、9月に兄もメジャー昇格を果たしたことで父子3人揃い踏みとなった。この年、145試合に出場し、24盗塁をマークし、新人王の投票では5位に入った。にはオールスターゲームに初めて選出された。 12月5日にジョー・カーターとともにトロント・ブルージェイズへ移籍(交換要員はフレッド・マグリフ、トニー・フェルナンデス)。移籍1年目のから6年連続でゴールドグラブ賞を受賞。には打率.310を記録。初めて3割の大台を上回った。打率、105得点、49盗塁はチーム1位となり、シルバースラッガー賞を初受賞。チームはプレーオフに進出し、アトランタ・ブレーブスを破り、球団初のワールドチャンピオンとなった。もワールドチャンピオンとなり連覇に貢献。ブルージェイズ在籍中は本拠地のスカイドーム併設のホテルに居住していた〔「さらば"最強二塁手"ロベルト・アロマー引退」『スラッガー』2005年6月号、日本スポーツ企画出版社、2005年、雑誌15509-8、35頁〕。 シーズン終了後FA宣言をし、ボルチモア・オリオールズへ移籍し、カル・リプケンと二遊間を形成した。は打率.328は打率.333と2年連続で自己最高を更新した。は打率.282と3割を下回ったが、オールスターゲームでMVPを受賞し、前年の兄に続いての受賞となった。 しかし、9月27日のブルージェイズ戦で判定に憤り、球審のジョン・ハーシュベックの顔にツバを吐いた。批判の的となり、審判団はプレーオフのボイコットを計画された〔。そのため翌は開幕から5試合の出場停止となった。アロマーとハーシュベックは後に和解している〔。 からまで在籍したクリーブランド・インディアンスでは遊撃手オマー・ビスケルと鉄壁の二遊間を組み、2人とも3年連続でゴールドグラブ賞を受賞した。との2年連続でシルバースラッガー賞を受賞。は受賞を逃したものの、打率は自己最高の.336をマークした。 その後12月11日にメッツへトレードで移籍。移籍1年目のは7月26日にスイッチヒッターとして史上7人目となる通算2,500安打を達成するも〔、打率は前年より7分近く下げデビュー年以来の低水準におわった。2003年も前年に続き低迷。7月1日にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍した。7月は打率.301を記録するも、8月は打率.230、9月は打率.221で、チーム地区優勝を逃す一因となった〔。 1月6日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスは買い手市場を生かして1年総額100万ドルの低年俸で契約〔「地区別ペナントレース展望 ナショナルリーグ西部地区」『月刊メジャー・リーグ』2004年3月号、ベースボール・マガジン社、2004年、雑誌コード 08625-3、68項〕。 日本球界移籍の噂もあったが〔、1月17日にデビルレイズと契約するも、キャンプ中の3月19日に引退。 通算安打は2724本、ゴールドグラブ賞は二塁手として歴代最多の10度受賞と、攻守に素晴らしい実績を残し、史上最高の二塁手とも言われる。、自身の背番号『12』はブルージェイズのエクセレントナンバー(準永久欠番)として顕彰された。資格取得1年目の2010年での殿堂入りこそならなかった(8票不足、得票率は73.7%)が、2年目の2011年に史上3番目に多い得票数を獲得して(583票、得票率は90.0%)、見事に殿堂入りを果たした。 また、殿堂入りを記念し、同年7月には古巣ブルージェイズはアロマーのエクセレントナンバーであった『12』を正式に永久欠番に指定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロベルト・アロマー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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