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ロベルト・ソト(Roberto Soto López、1948年 - )は、プエルトリコ・サンフアン出身の元プロレスラー。地元のプエルトリコでは、覆面レスラーのインベーダー2号(Invader #2)としての活動でも知られる。 カルロス・コロン主宰のWWCを主戦場に、アメリカ合衆国本土の深南部やニューヨーク地区でもベビーフェイスのポジションで活躍した。 == 来歴 == デビュー後は実兄の"サイクロン" マヌエル・ソトとともにアメリカ本土で活動し、ニューヨークのWWWFではドクター・ジェリー・グラハム&エディ・グラハムらヒール勢のジョバーを務め、ゴリラ・モンスーンとの1対2のハンディキャップ・マッチも行われた。WWWFではマヌエルの「サイクロン」に対し、ロベルトは「ハリケーン」をニックネームとしていた。 その後、フロリダやジョージアなどNWAの南部テリトリーに進出。ジョージアでは1969年9月16日、マヌエルとの兄弟コンビでメイコン・タッグ王座の初代王者チームに認定されている。シングルでは1972年5月5日、バディ・コルトからジョージア・ヘビー級王座を奪取。以降もジョージアを主戦場に、アルゼンチン・アポロ、ボブ・アームストロング、ティム・ウッズなどの人気選手のパートナーとなって活動した。 1974年10月、新日本プロレスに初来日。シリーズ後半戦に特別参加したアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーに起用され、アントニオ猪木&坂口征二が保持していた北米タッグ王座に挑戦した。1977年3月の再来日時にはワールドリーグ戦の第4回大会に出場。外国人選手同士の公式戦ではマスクド・スーパースターとニコライ・ボルコフには敗退したが、トニー・チャールズとベラ・ロドリゲスからは勝利を収めている。翌1978年3月の来日では、当時ドラゴン・ブームを巻き起こしていた藤波辰巳とも対戦した。 その後、地元プエルトリコのWWCにて覆面レスラーのインベーダー2号に変身、インベーダー1号ことホセ・ゴンザレスとのタッグチームで活躍し、1978年11月11日にはケンゴ・キムラ&ハル・ササキから世界タッグ王座を、1979年8月5日にはダッチ・マンテル&フランキー・レインから北米タッグ王座をそれぞれ奪取。ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのザ・ファンクスとも抗争を展開した。 1981年1月、ジ・インベーダーのリングネームで国際プロレスに来日。ルー・テーズ杯争奪戦の前期予選に参戦し、Bブロック2位の戦績を残したが(アニマル浜口に敗退するも鶴見五郎とベン・アレキサンダーに勝利)、各ブロックの2位選手3名による敗者復活戦でラッシャー木村とボブ・スウィータンに連敗、秋に開催が予定されていた決勝リーグへの出場権は獲得できなかった。なお、本拠地プエルトリコでのインベーダーのマスクはオリジナルのものだったが、この国際プロレス来日時はミル・マスカラスを模した覆面を被っていた。 同年7月からはWWFのミッドカードに出場し、ジョージ・スティール、ラリー・シャープ、ジョニー・ロッズ、カルロス・ホセ・エストラーダらと対戦。若手時代のカート・ヘニングと組み、WWFタッグ王者チームのザ・ムーンドッグス(レックス&スポット)やミスター・サイトー&ミスター・フジとも対戦した。 以降、1980年代はプエルトリコにてインベーダー2号として活動し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、オックス・ベーカー、アイアン・シーク、ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスのザ・シープハーダーズなどと抗争。アメリカ本土での活動も続け、1985年9月20日にはアラバマのコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリングにてNWAアラバマ・ヘビー級王座を獲得、翌1986年にかけてジェリー・スタッブスとタイトルを争った。1987年はテキサス州ダラスのWCCWにて、アブドーラ・ザ・ブッチャーやキラー・ブルックスと対戦している。 セミリタイア後は、1991年5月にFMW、1993年8月にはW★INGプロモーションに、それぞれインベーダー2号として来日。プエルトリコでは1997年と1998年にWWCのアニバーサリー・イベントに出場した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロベルト・ソト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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