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ローベルト・リッター・フォン・グライム(Robert Ritter von Greim, 1892年6月22日 - 1945年5月24日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦末期の1945年4月、アドルフ・ヒトラーによりドイツ空軍総司令官および元帥に任命されるが、敗戦後に捕虜となり自決した。人間性豊かな人物で配下からは「パパ・グライム」と親しまれていた。 == 経歴 == === パイロット === バイエルン王国バイロイトの生まれ。1911年に士官候補生としてバイエルン陸軍鉄道大隊に配属される。翌年第8野戦砲兵連隊に転属。ミュンヘンの士官学校を卒業後、連隊に戻って少尉に任官した。第一次世界大戦が勃発すると、連隊の中隊付将校、1915年からは作戦課参謀などを務める。同年志願して航空偵察兵としての訓練を受け、さらに1916年にはパイロット養成教育を修了し、1917年に中尉に昇進して連隊に戻った。1917年4月に第34戦闘航空隊に転属となり、同年に隊長となる。1918年3月には、イギリス軍の戦車を飛行機で撃破したおそらく最初のドイツ軍パイロットとなった。同年春のドイツ軍大攻勢の際は多くの戦闘機隊を指揮し、大戦中の通算で撃墜28機を記録。プール・ル・メリット勲章を受章したほか、10月23日にはバイエルン王国の「マックス・ヨーゼフ軍事勲章」を受章、騎士 (Ritter) を名乗ることを許され、貴族に列せられた。 敗戦後のカップ一揆(1920年3月)の際は、ベルリンとミュンヘン間の航空機による連絡任務にあたった。同年自らの希望により、名誉大尉の階級を最後に軍を離れ、ミュンヘン大学で法学を学び始めた。卒業後は銀行員になる。しかし飛行機への関心を失ってはおらず、航空郵便業の立ち上げに参加した。1924年から3年間中華民国に赴任して、中国国民党の空軍建設を指導した。1927年にドイツに戻った後は、ヴュルツブルクの飛行機学校教官となった。 1934年1月、空軍再建を目指すドイツ軍に少佐として復帰。ヴェルサイユ条約の取り決めにより当時はまだ空軍はなかったため、第7野戦砲兵連隊長となった。直後に新設の航空省に出向し、戦後初めての戦闘航空団「リヒトホーフェン」の編成に携わった。1935年1月、戦闘機隊監察に就任し、9月に中佐に昇進。1936年4月に大佐に昇進して制空・兵器監察官に任命された。1937年に人事部長に転じる。1938年2月、少将に昇進。1939年初めに第5航空師団長に補された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローベルト・フォン・グライム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Robert Ritter von Greim 」があります。 スポンサード リンク
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