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キングス・カレッジ・ロンドン (ロンドン大学キングスカレッジ) (King's College London, KCL) は、英国のロンドン大学を構成するカレッジのひとつであり、ジョージ4世及び初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーによって1829年に設立された、イングランドでは4番目に古い名門大学である。KCLはラッセル・グループのメンバーで、9つの学部と5つのキャンパスを持つ総合大学であり、学生数は21,300名と、ロンドン大学のカレッジの中で最大規模を誇る。2014年QS世界ランキングでは16位〔http://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2014#sorting=rank+region=+country=+faculty=+stars=false+search=〕、2015年タイムズ誌世界ランキングで27位〔https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/kings-college-london?ranking-dataset=133819〕にランク付けされ、過去に12名のノーベル賞受賞者を輩出している〔http://www.kcl.ac.uk/aboutkings/history/nobellaureates.aspx〕。 ==歴史== KCLは1829年、ジョージ4世の命によって設立された。当時、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学は男性・イギリス国教徒・貴族出身者のみに入学を許されるなど差別的な入学条件を課していた。これに対し「万人に開かれた大学」を実現すべく、哲学者のジェレミ・ベンサムが1826年に性別・宗教・人種・政治的思想による入学差別を撤廃したロンドン・ユニバーシティ(後のユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)を設立した。 しかしこの動きは、既得権益を失う事を恐れたオックスフォード大学、ケンブリッジ大学や聖公会から激しい反発を受けた。主教は非宗教的な大学の在り方を批判し、公開書簡の中でロンドン市内に対抗する宗教的で聖公会の意図を反映した大学機関の設立を提言した。この書簡に刺激を受けた時の首相ウェリントンは、1828年6月21日のジョージ4世が開いた本件に関する会議の中で議長を務め、大学設立は実現に向かっていった。こうして1829年8月14日のジョージ4世の勅許により、KCLの正式な設立となった。 なお、このようなウェリントンの聖公会やカトリック救済法案への過剰な肩入れは、カトリック教会に対しほとんど完全な市民権を与えることになるとによる抗議があり、これは1829年3月21日のバターシー・パークにおける決闘へつながった。結果は両者とも意図的に相手を外した射撃によって決着した。KCL内でもこの決闘の日は特別な日として祝われており、様々なイベントが毎年の伝統的に開かれている。 こうして1831年に、オックスフォード大学に似た大学運営のKCLが開校した。しかしこのような設立経緯にもかかわらず、最初の入学案内書では非聖公会信徒の入学が認められている。開校時に提供されたコースは化学、英文学、商学である。 この時期はまだKCLもロンドン・ユニバーシティも、大学の学位の授与が出来なかった。これは特に、臨床実習を希望する医学専攻の学生にとって問題となった。そこで時の大法官であり、ロンドン・ユニバーシティ運営委員会の会長であったが問題解決へ向けて関わることとなった。この経緯により、ブロハムはKCLの学長も兼ねるようになる。 当時イギリスでは、1つの都市で1つの機関のみが学位の発行の権限を持つ制約があった。そのため、政府がロンドン市内の2つの大学に学位発行権限を与えることは非現実的であった。この経緯から、2つの大学は統合の形で話し合いが行われ、1836年に2つの大学がカレッジになる形でロンドン大学が発足した。こうして、ロンドン大学のカレッジとして正式に発足したKCLは、夜間コースという形ではあるが女性・労働者階級に対しても開かれたカレッジとなる。 KCLの180年にわたる歴史の中では多くの重要な研究がなされ、中でもロザリンド・フランクリンとモーリス・ウィルキンスによるDNAの螺旋構造の発見は有名である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キングス・カレッジ・ロンドン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 King's College London 」があります。 スポンサード リンク
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