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ロンドン自治区(ロンドンじちく、)は、イギリスおよびイングランドの首都ロンドン(大ロンドン)における32の主要な地方自治区域であり、各自治区はロンドン区カウンシル (London borough council) により運営される。ロンドン自治区は全てにより、1965年4月1日にグレーター・ロンドン(大ロンドン)が設立されると同時に設置されたの一種である。シティ・オブ・ロンドンとそれを取り巻く12の自治区はインナー・ロンドンを形成し、インナー・ロンドンの外側にある20の自治区はアウター・ロンドンを形成している。 各ロンドン自治区の人口は、およそ15万人から30万人程度である。インナー・ロンドンの自治区は、人口・面積の双方の点において、規模が小さい傾向にあり、アウター・ロンドンの自治区よりも人口密度が高い。1960年代以降、インナー・ロンドンの自治区の人口は、域外への人口流出により大いに減少した。 ロンドン区カウンシルは、大ロンドン全域において限定的な権限を有する戦略的な大ロンドン庁と対照的に、地方行政サービスの大部分を提供する。各自治区は幾つかのに分割され、各カウンシルにおいて、定期的な見直しという条件で、4年ごとに実施される選挙により議員が選出される。第1回選挙は、1964年に行われた。直近の選挙はされ、次回選挙は2018年に予定されている。 ロンドン区カウンシルの政治会派は、保守党、労働党、自由民主党の3党が支配的である。28の区のカウンシルは、議会から選出されたリーダーが率いる内閣が政策決定を行う「リーダーと内閣」制を採用しており、さらに、ハックニー区、ルイシャム区、ニューアム区およびタワーハムレッツ区では、区長は直接公選される。なお、シティ・オブ・ロンドンは、シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションならびにインナー・テンプルおよびミドル・テンプルにより統治される。 == 歴史 == === 創設 === 1930年代半ば頃から、大ロンドン地域は、、、の4種の地方政府当局から構成されていた。大きなカウンティ・バラは全ての地方行政サービスを提供していた上に、通常はカウンティ・カウンシルにおいて与えられる権力を有していた。ミューニシパル・バラおよびアーバン・ディストリクトの当局はより少ない権力しか持っていなかった。この状況はカウンティ・カウンシルが初等教育や図書館運営のような機能をミューニシパル・バラとディストリクト・カウンシルに委譲できたことにより、より複雑化し、各サービスがバラバラに実施されることになった。ロンドン地方政府の改革により、この取り決めを調整しようとした。 が1957年に設立され、1960年10月19日に報告書が公表された。その報告書の中で、10万人から25万人の人口を持つ52の大ロンドン自治区 (Greater London Boroughs) が提案された。これは、その時点で存在していた全ての自治体が入り混じったもので構成され、2つないし3つの地域が合併し、分割の結果、2つの自治区が形成された。1961年12月、政府は52区よりも34区にするよう提案して、それらの境界について詳細に述べた。1962年には、提案された区の数は、さらに32区にまで減らされた。 1965年4月1日、全32区のロンドン自治区とグレーター・ロンドンが1963年ロンドン政府法により発足した。旧ロンドン県地域の12区はインナー・ロンドンに、残りの20区はアウター・ロンドンに、それぞれ指定された。アウター・ロンドンの区カウンシルはであったが、インナー・ロンドンの区カウンシルは、第一に、旧ロンドン県の多くの小さな地元当局は普通でないほど教育を提供した歴史がないということを指摘した野党および政府により称賛され、を存続させるために、そのように指定された。シティ・オブ・ロンドンは継続してシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションならびにインナー・テンプルおよびミドル・テンプルにより治められることになった〔地方政府の立法は、シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション、インナー・テンプルおよびミドル・テンプルが、それらの地域においてロンドン区カウンシルの機能を発揮するために、特別な供給を用意する。〕 第1回選挙は、され、新しいカウンシルは翌年に正式に権限が委譲されるまでの間、影の当局として非公式に行政の運営にあたった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロンドン自治区」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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