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エリート(''Elite'' )は、イギリスの自動車メーカー、ロータスが製造・販売していたスポーツカーである。 初代が1957年から1963年まで、2代目が1974年から1982年まで製造されたが、両車に直接的なつながりはない。 == 歴史 == === 初代(1957年-1963年) === 初代の開発コードネームはロータス14、オールFRP製のモノコックボディを持つロータス初のGTカーとして1957年のロンドンショーにデビューした。 創業者コーリン・チャップマンの友人で会計士を本業とするピーター・カーワン・テイラー(''Peter Kirwan-Taylor'' )の原案をデ・ハビランド・エアクラフトに勤務するフランク・コスティン(''Frank Costin'' )が仕上げたcd値0.29の空力的で美しいスタイリング、軽量なボディと高出力のコヴェントリー・クライマックスFWEエンジンによる高い動力性能、ロータスならではの卓越した操縦性で、セブンとともに、ロータスのスポーツカーメーカーとしての地位を不動のものにした。レースにおいてもル・マン24時間レースで6回のクラス優勝を遂げるなど大活躍した。 このクルマの優れた操縦性の一端は、当時のこのクラスでは珍しい4輪独立サスペンションを備えていた点にあるが、リヤはコーリン・チャップマン考案のチャップマン・ストラットが採用されていた。これは、機構学上のロワ・アームの働きを駆動シャフトが兼用しているサスペンションであり、ジャガーEタイプやロータス・ヨーロッパ等駆動シャフトをアッパ・リンクとして兼用しているサスペンションとは一線を画する。チャップマン・ストラットではロールセンタ高さの決定に駆動シャフトの位置が支配的であり、ロールセンタは、当時流行の後輪独立サスペンションスイングアクスルよりも低く、一方当時最先端のサスペンションマクファーソン・ストラットよりは高い位置に発現する。適正な高さのロールセンタは、ばねやスタビライザに頼らず適正なロール剛性を発生し、その為リヤのスタビライザの省略やソフトなばねの採用が可能となり、結果、スイングアクスルで見られるジャッキングアップ現象による操縦性の急変なしに高いロードホールディングとトラクションを実現した。またチャップマン・ストラットでは、ストラット部の曲げ剛性で駆動・制動反力とキャンバ角のロケーションを受け持っており、実際のリンクは前方からハブをつかんでタイヤの前後方向と操舵方向を同時に拘束しているA型リンク1本だけで成立している。ダブル・ウィッシュボーンに匹敵する独立サスペンションとしては部品点数が極端に少なく非常に軽量な点も、このサスペンションのメリットである。斯様に優れた機能を持つチャップマン・ストラットであるが、タイヤがハイグリップ化、エンジンが高トルク化されていくと、ロールセンタの設計自由度の低さや十分な剛性が確保し難い点などが明確化し、次世代のエランではマクファーソン・ストラットに取って代わられた。ロードカーでのチャップマン・ストラットの採用はこのエリートのみである。また機構学的特徴とは関係ないが、ハブベアリングのグリスがアップライト内部に流出して失われる、頻繁なメンテナンスを怠るとA型リンクが脱落するなどの稚拙で乱暴な機械設計も、チャップマン・ストラットの評判を落とした遠因となった。 設計・製造上の問題は、サスペンションに限らずこのクルマの生涯について回った。初期の生産上の問題からブリストル飛行機に外注されたFRPモノコックボディの生産性の低さ、構造上不可避であったこもり音、FWEエンジンの過大なオイル消費、「常にガムテープと針金を積んで置くべきだ」と評された低い工作水準などから生産台数は伸び悩み、初代エランに道を譲り、累計生産台数998台をもって1963年に短い生涯を終えた。現存車は今でも理想のスポーツカーの一台として高値で売買されている。 日本には当時の代理店、芙蓉貿易の手で数台輸入された。当時のオーナーの中には本田宗一郎・博俊父子も含まれていた。この車はホンダの実験車としても用いられ、ホンダ・S600のダッシュボードデザインにはエリートの影響が窺われる。 1980年代以降は中古並行輸入でも相当数が上陸している。 ファイル:Lotus Elite engine.jpg|コヴェントリー・クライマックス FWEエンジン 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロータス・エリート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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