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『アップダウンクイズ』()は、1963年(昭和38年)10月6日から1985年(昭和60年)10月6日まで、毎週日曜日19:00 - 19:30(JST)に放送されていた毎日放送(MBS)製作の視聴者参加型クイズ番組である。ロート製薬の単独提供(第1回放送より)、日本航空の協賛で放送された。 放送開始から1975年(昭和50年)3月30日放送分まではNET(現・テレビ朝日)系列の一部で放送されていたが、同年4月6日放送分以降はネットチェンジに伴い、TBS系列で放送されていた。 この番組は、MBSがラジオ単営局・新日本放送時代の1952年(昭和27年)から6年間放送されていた『近鉄パールクイズ』をベースに制作された。 == 番組概要 == * 解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、早押しクイズに挑戦、10問正解(10段まで上り詰める)でハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られた。 * クイズに正解すると解答者の乗ったゴンドラが1段上昇(アップ)、誤答するとゴンドラが一気に0まで下降(ダウン)するルールだった。 * 1963年10月6日、喜劇俳優・市村俊幸の司会、当時MBSアナウンサーだった小池清の出題でスタートした。市村はロート製薬が当時発売していた胃腸薬「シロン」のイメージキャラクターであり、前年1月から放送していた同じロート製薬一社提供の前番組『私はナンバーワン』の司会者でもあった。 * 半年後の1964年3月29日放送分で市村が降板〔市村の降板理由は、後年(1980年)TBS『奥さま8時半です』に小池が出演した時、市村の仕事(俳優)が多忙を極めたためだと、小池の口から語られた。 * なお、この時は市村がゲスト出演し、久し振りに小池と顔を合わせた。〕、翌週4月5日(第29回)放送分より小池が司会を担当、出題を同じくMBSアナウンサーの長田淑子が務めることになった。その後、出題者は1971年4月11日放送分から市毛毬子、さらに1972年11月19日放送分から佐々木美絵(いずれもMBSアナウンサー)が担当、以後「小池司会・佐々木出題」で11年間にわたって親しまれた。 * カラー放送が行われるようになったのは1969年10月5日放送分からである。また、音声多重放送は最終回まで一貫して行われなかった。 * 出題者は冒頭の挨拶と問題読みだけであって、朝日放送『パネルクイズ アタック25』のように、賞品等の紹介は一切なかった(同じロート製薬一社提供のTBS『クイズダービー』も出題者は問題読みのみ)。 * ABCからMBSへのTBS系列ネットチェンジに伴い、1975年4月6日放送分から、TBS系列での全国放送に移行した。折しもTBS系列での放送第1回がちょうど600回となり、「600回記念・クイズ天狗タレント特集」が放送された。 * 1983年10月に放送20周年を迎えるのを機にリニューアルすることとなり、同年9月25日放送分(第1004回)で小池が降板した(あくまで本人の意思によるもの)。同年10月9日放送分(第1005回)〔10月2日は本番組が内包された秋の改編期特番『タモリのスター対抗クイズ大集合』が放送された。このときも佐々木が出題者として出演している。〕から俳優の西郷輝彦が司会となった(出題は佐々木が引き続き担当)。番組タイトルも『新アップダウンクイズ』に変わったが、“新”は半年で消えた(ただし、ゴンドラセット上の看板には「新」はついていなかった)。 * 番組の収録は、毎日放送千里丘放送センターAスタジオで行われていた〔ただし、1970年3月から9月に開催された日本万国博覧会に伴う関連番組制作の都合上、同年5月3日から10月18日放送分は東京都港区六本木にあったテレビ朝日(当時の日本教育テレビ(NET)本社と全く同じ場所)での収録となっている。〕。また、収録は隔週木曜日に2回分まとめて行われた(うち1回は3日後に放映)。なお末期は土曜日に収録された。 * MBSが関西ローカルでプロ野球中継を放送している日は、系列キー局(NET→TBS)及び番組ネット局向けに裏送りで放送していた。 * 同番組の最高視聴率は1969年2月2日放送分の39.2%(関西)、同年5月11日放送分の27.1%(関東)が最高(いずれもビデオリサーチ調べ)。1967年4月21日には日本民間放送連盟賞を受賞している(他にも受賞歴あり)。 * タイトルロゴは五荘千尋が手がけたものである(他のMBS制作番組も全国ネット・関西ローカル問わず多くの番組タイトルロゴを手がけている)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アップダウンクイズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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