翻訳と辞書
Words near each other
・ ロードアイランド (戦艦)
・ ロードアイランド (曖昧さ回避)
・ ロードアイランドの戦い
・ ロードアイランドデザイン大学
・ ロードアイランドデザイン学校
・ ロードアイランドレッド
・ ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン
・ ロードアイランド・デザイン学校
・ ロードアイランド及びプロビデンス・プランテーション州
・ ロードアイランド州
ロードアイランド州の歴史
・ ロードアイランド州の郡一覧
・ ロードアイランド州の都市圏の一覧
・ ロードアイランド州会議事堂
・ ロードアイランド州知事
・ ロードアイランド州議会議事堂
・ ロードアイランド州選出のアメリカ合衆国上院議員
・ ロードアイランド植民地
・ ロードアイランド造形大学
・ ロードアイランド邦


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ロードアイランド州の歴史 : ウィキペディア日本語版
ロードアイランド州の歴史[ろーどあいらんどしゅうのれきし]
ロードアイランド州の歴史(ロードアイランドしゅうのれきし、英:History of Rhode Island)は、アメリカ合衆国ロードアイランド州の、植民地時代から現代までの歴史を扱う。ロードアイランドは1636年に信仰の自由を求めた移民が入植したときに始まり、アメリカの歴史の先端を歩んできた。南北戦争では戦場から遠かったので戦災を受けず、むしろ軍需品需要で産業革命が促進された。その労働需要のために多くの移民を受け入れ、現代でも移民が続いている。
== 植民地時代 ==

1614年オランダの探検家アドリアン・ブロックが、現在のブロック・アイランドと呼ばれる島を訪れ、1625年までにオランダ西インド会社ナラガンセット湾のダッチ・アイランドに一時的な交易基地を設け、土地の先住民族と交易を行った。ナラガンセット族を含む先住民族はこの地域のほとんどを占拠しており、またニアンティック族とも密接な関係があった。先住民族の多くは疫病と戦争でその人口を大きく減らした。
1636年ロジャー・ウィリアムズはその宗教観のためにマサチューセッツ湾植民地を追放され、ナラガンセット湾岸の一画に入植した。ウィリアムズはこの地をプロビデンス(神の摂理)と呼び、信仰の自由の場所と宣言した。下記はウィリアムズと他の入植者が作成した同意条項であり、プロビデンスに住もうとする者は署名を求められた。
:我々は、その名前をここに記し、プロビデンスの町に住むことを願うものであり、住人、家長、町に組み込まれた者、および社会の事柄でのみ住人と同様に認められた者の多数の同意によって、秩序正しいやり方で作られた主体により公衆の利益のために作られる命令や同意事項に対し、積極的・消極的を問わず従うことを約束する。
当初、ロードアイランドは超法規的自治の植民地であり、ロンドンでの承認を得てはいなかった。1644年、ロードアイランドの代表がイギリス議会から認可を獲得した。しかし、1644年認可は清教徒革命中のものであり、議会と抗争中の国王チャールズ1世の同意を得てはいなかった。1660年チャールズ2世による王政復古の後で、議会によって発行された認可の有効性が問われることになった。1662年ロードアイランドは認可を得るために代表団をロンドンに派遣した。翌年、チャールズ2世はかなりの程度の自治権を含む植民地の勅許を認めた。18世紀までに、ロードアイランドはコネチカットと共に、イギリス領北アメリカに残る唯2つの勅許植民地となった。
1637年アン・ハッチンソンが異端の罪を問われてマサチューセッツ湾植民地を追放された。ハッチンソンとウィリアム・コッディントンやジョン・クラークを含む他の数人が、アクィドネック島ポーツマスの町を創った。1639年、コッディントンはポーツマスを離れ、アクィドネック島にニューポートの町を創った。
この都市に島の正式な政府が作られた。ウィリアム・コッディントンが最初の知事になり、フィリップ・シャーマンが初代秘書官になった。1643年、サミュエル・ゴートンがショーメット、現在のウォリックを創った。1644年、アクィドネック島はロードアイランドと名前を変えた。

ジョン・クラークは1663年にチャールズ2世により、ロードアイランド・アンド・プロビデンス・プランテーション(現在の州名に同じ)の勅許を得、2つの植民地を実質的に統合した。勅許の条項に従い、土地の所有者のみが選挙権を持つこととされた。産業革命の前で、ほとんどの住民は農夫であったが、これは民主的と考えられた。当初の勅許は1842年まで州憲法として使われた。
1664年、植民地の標章が採用された。碇と「HOPE」(希望)の文字をあしらっている。
ニューイングランドの住人と先住民族の関係は、最初は緊張していたものの、多くの流血沙汰までには至らなかった。ロードアイランドの近くに住む勢力のある民族はワンパノアグ族、ピクォート族、ナラガンセット族およびニップマック族であった。ワンパノアグ族のスカントという者がピルグリム・ファーザーズの元に留まりこの地域で生き残るための多くの有益な技を教えた。スカントは入植者と先住民族の和平にも大きく貢献した。

ロジャー・ウィリアムズは力のあるナラガンセット族と白人開拓者とが友好的関係を保たせることに長けており、植民地の隣人の尊敬を集めた。1637年、ナラガンセット族は説得されてイギリス人と同盟を結び、好戦的なピクォート族を殲滅する戦いに参加した。しかし、平和は長く続かなかった。1670年までに、ウィリアムズやピルグリムを友好的に迎えた種族までが開拓者と疎遠になり、ニューイングランド全体を巻き込む戦争の可能性が出てきた。
17世紀のロードアイランドで最も重要で衝撃的な出来事は、1675年から1676年にかけて起こったフィリップ王戦争であった。ワンパノアグ族の酋長メタコメットはイギリス人からフィリップ王と呼ばれていた。ポーツマスの入植者はメタコメットの父マサソイトから土地を購入した。メタコメットがイギリスに対して反乱を起こし、最初の攻撃はナラガンセット湾周辺で、ニューイングランド中に広がった。
1686年、イギリス王ジェームズ2世はロードアイランドに対し、ニューイングランド自治領に帰属させる命令を下し、エドマンド・アンドロスを総督に指名した。これは植民地の勅許を取り下げることを意味したが、ロードアイランドはアンドロスが解任され、自治領が解散するまでその領有を維持し続けた。1689年名誉革命ウィリアム3世が王位に就くと、ロードアイランドは勅許に基づく植民地に戻った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロードアイランド州の歴史」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.