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ローマの大火(ローマのたいか)とは、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災を指す。 == 概要 == 64年7月19日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったという〔タキトゥス『年代記』15巻〕。 帝政期に入り、首都ローマは100万もの人口を抱える大都市へと変貌したが、建築物の多くが木造で道幅が狭いこと、人口増加による高層集合住宅(インスラ)の密集などが災いし、数日鎮火しない程の大火災が幾度も起きていた。この64年の火災はその中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩〔スエトニウス『ローマ皇帝伝』〕かかっている。 出火当時アンティウムの別荘に居た皇帝ネロは、火災の報告を聞くと直ちにローマへ帰り、陣頭指揮をとって鎮火及び被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたった。しかし「大火を宮殿から眺めつつ故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていた」という風評が立つ。一旦鎮火するも貧民街から2度目の火の手が上がり、そこがネロの佞臣と悪名高い護衛隊長ティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたという〔タキトゥス『年代記』15巻〕。 こうした風評をもみ消そうとしたのか、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑した。しかし、この後も風評が完全に消えることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローマ大火」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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