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ローマ海軍(ローマかいぐん)は、古代ローマの海軍。ラテン語で海軍あるいは艦隊をさす単語として「クラッシス」(Classis)がある。 ==概要== 元々、ローマはイタリアの都市国家からスタートし、市民軍であるローマ軍団を中心として勢力を拡大してきたため、海軍の必要性は少なかった。なお、紀元前311年に2人の長官(ドゥオウィリ)からなる委員会を設立し、20隻ほどの艦隊が作られた記録が残っている。しかし、どちらかと言えばフェニキアやギリシャなどの海洋国家の同盟軍の海軍に頼ることが多く、しばらくは目立った活躍も無かった。 だが、第一次ポエニ戦争では地中海で一、二を争う海軍国カルタゴが相手とあって、捕獲したカルタゴ船から学んだ技術を模倣するなどして大艦隊の建造を開始した。その際に2ヶ月でローマは艦隊を作り上げたとされており、これは後世の誇張と思われていたが、カルタゴ船を海底から引き上げたところ船の木材の接合場所などに記号や印が付けてあり、当時には既に大量生産の仕組みが確立されていたと考えられるようになった。 ローマ海軍は、新兵器「コルウス(カラス)」の導入や、陸・海の連携攻撃を成功させて、シチリアにいたハミルカルへのカルタゴ本国の補給を寸断するなど活躍したが、経験の浅いことが仇となり、戦闘よりむしろ海難事故での死者が十数万以上に及ぶほど大惨事が度々起こった。それでも徐々に経験が深くなるにつれ、海上では一度の戦闘以外は勝利を続け、カルタゴ相手に優勢に戦った。第二次ではハンニバルへの補給を妨害し続けるなど活躍し、共和制末期にもポンペイウスが海軍を率いて当時活発だった海賊を制圧するなど、活躍の機会は多かった。 帝政以降にはヴァンダル族やパルティアやペルシア、新興国のイスラム帝国の海軍とも戦い、ギリシア火を搭載した船で戦ったが、末期にはヴェネツィアに頼って解散したり、あるいは徹底的に壊滅させられたりして、徐々に戦力を減少させ、領土の縮小・帝国滅亡と共に消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローマ海軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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