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ローレンツ・クリストフ・ミツラー・フォン・コーロフ(Lorenz Christoph Mizler von KolofまたはWawrzyniec Mitzler de Kolof、Mitzler de Koloff 1711年7月26日 - 1778年5月8日)は、ドイツの医師、歴史家、出版者、数学者、作曲家、ポーランド啓蒙時代の先駆者〔"Mitzler de Kolof, Wawrzyniec," ''Encyklopedia powszechna PWN'' (PWN Universal Encyclopedia), volume 3, p. 144.〕〔"Mitzler de Kolof, Wawrzyniec," ''Encyklopedia Polski'' (Encyclopedia of Poland), p. 417.〕である。 == 生涯 == ミツラーはミッテルフランケンのハイデンハイム(英語版)に生まれた。父はハイデンハイム、アンスバッハ侯領の宮廷で書記を務めていたヨハン・ゲオルク・ミツラー、母はスイス、ザンクト・ガレン出身のバルバラ・シュトゥンプフだった〔Johann Mattheson, ''Grundlage einer Ehren-Pforte'', Hamburg, 1740, S. 228. There are some mistakes in this text: see Felbick, 2012, p. 36 f.〕。 ミツラーに最初に音楽の手ほどきを行ったのはオーバーシュルツバッハ(ドイツ語版)出身の教役者であるN.ミュラーであった。ミツラーは彼からフルートとヴァイオリンの指導を受けた〔Felbick 2012, p. 175.〕。1724年から1730年にかけてはアンスバッハのギムナジウムにおいて、後の1731年から1734年の間ライプツィヒのトーマス校の学長を務めることになるヨハン・マティアス・ゲスナーの下で学んだ。1731年4月30日にライプツィヒ大学に入学したミツラーはそこで神学を修めた。彼はゲスナーをはじめ、ヨハン・クリストフ・ゴットシェート、クリスティアン・ヴォルフの教えを仰いでいた。1733年12月に学士号、続く1734年に修士号を取得している。この時期、彼は作曲の勉強にも意欲を燃やしており、ヨハン・ゼバスティアン・バッハとも接点を持っていた。ミツラーが記したところによると、バッハは敬意をもって自らの「良き友人であり支援者」と呼んでいたという〔Felbick 2012, p. 432〕。 ミツラーは法学と医学を学ぶべく1735年にヴィッテンベルクへと赴き、1736年にライプツィヒへ帰ってきている〔Felbick 2012, p. 176〕。 1737年の5月から音楽史とヨハン・マッテゾンの『''Neu-eröffnete Orchestre''』に関する講義を開講し、過去150年にドイツの大学で音楽の講義を行った最初の人物となった。さらに1738年には月刊誌『''Neu eröffnete musikalische Bibliothek''』を刊行する〔この雑誌はジャコモ・ルッケジーニ伯爵並びにアンスバッハのカペルマイスターであったG.H.ビュムラーの後援を受けて、彼が新たに設立した''Korrespondierenden Sozietät der Musicalischen Wissenschaften''から定期的に刊行されるようになった。〕。ミツラーはこのあたりの時期に音楽出版業を開始している。1747年には医学の博士号を得るべく、で学問を再開した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローレンツ・クリストフ・ミツラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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