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ローンボウルズ(英語:lawn bowls)は、ボウルと呼ばれる偏心球を、目標球のどれだけそばに近づけられるかを競う球技である。 イギリス発祥のスポーツで、ボウリングの前身でもあり、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドといったコモンウェルス諸国で人気がある。ボウルズ(bowls)、ローンボウルス、ローンボウリング(lawn bowling)とも呼ばれる。また、フランスのスポールブール、ペタンクやイタリアのボッチェといった、類似のブールスポーツの英語での訳語としてボウルズの語を用いる場合がある。 コモンウェルスゲームズの競技種目であるほか、世界大会も開催されている。適度な運動量で楽しめるため、レクリエーションスポーツとして、高齢者や障害者にも親しまれている。 == 歴史 == 起源はボウリングと一緒であり、紀元前5000年頃に古代エジプトで行われていたピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式である。しかし、ローンボウルズはピンを倒すというスポーツではないので、この行事との共通点は転がすということのみである。 よって、今日の競技形式の直接の起源は13世紀のイギリス、スコットランドで流行したボウリング・オン・ザ・グリーンにあるとされている。14世紀、エドワード3世やリチャード2世らイングランドの国王たちは兵士たちが弓術をおろそかにするとして、しばしばローンボウルズを禁止した。しかし、その一方でローンボウルズは確実に浸透、シェイクスピアの史劇『リチャード二世』第3幕第4場には、女性もローンボウルズを楽しんでいたことをうかがわせる記述がある。自らも愛好者であったヘンリー8世は、貴族ではない平民階級がこのスポーツを行なうことをクリスマスの時期を除いて禁じているが、このことはそれだけこのスポーツが幅広い層の人々に好まれていたことを示している。 ローンボウルズに関するエピソードとしてよく知られるのがサー・フランシス・ドレークの伝説的な逸話である。1588年7月、プリマス・ホーでボウルズに興じていたドレークは、無敵艦隊の接近を知らされた際、ゲームを終えてからスペイン人をうちのめす時間はまだある、と豪語したとされている。その後、アルマダの海戦に臨んだドレークはその言葉どおりにスペインに勝利した。なお、ボウルズ禁止令が解かれたのは1845年のことである。 17世紀以降、北アメリカ、オセアニアなどイギリスの植民地支配が拡大するに従って、ローンボウルズもそれらの支配地域へと広がった。オーストラリアでは1845年にタスマニア州で試合が行なわれた記録が残っている。 1848年、スコットランドのグラスゴーにローンボウルズのプレイヤーたちが集まり、基本となる競技規則の必要性を認識、弁護士のミッチェル(William W. Mitchell, 1803年-1884年)が中心となってこれをまとめ、1864年にルールブックが出版された。1892年にはスコットランドボウリング協会が、1903年にはイングランドボウリング協会が、そして1905年には国際ボウリング理事会が創設され、愛好家たちの集まりが組織化された。 コモンウェルスゲームズでは、その前身にあたる1930年の第1回大英帝国競技大会以来、1966年のジャマイカ大会の1大会を除いて毎回開催され、2014年の大会においても競技が予定されている。1966年、施設の不備を理由にコモンウェルスゲームズで競技が行なわれなかったことから、代替として初めて開催されたのが、ローンボウルズの世界選手権大会である。女性選手が参加する種目も加わり、1972年以降4年おきに開催されている。また、アジア太平洋地域諸国が参加する、アジア太平洋選手権も1985年から隔年で行なわれている。 パラリンピックでは、1968年のイスラエル大会以来1996年のアメリカ大会まで、1992年のスペイン大会を除くすべての大会でローンボウルズ競技が行なわれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローンボウルズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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