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ワコーチカコは日本の元競走馬、元繁殖牝馬。牝馬ながら、牡馬相手に中央競馬の重賞を通算4勝した。 ※戦績の馬齢は旧表記(数え年)とする。 == 戦績 == 3歳時の1992年に函館競馬場でデビュー。初勝利には3戦を要した。3歳時は横山典弘が騎手をつとめ〔デビュー戦はマザートウショウに敗れた。マザートウショウは後に横山典が主戦騎手となるが、このときの鞍上は柴田政人だった。〕、エリカ賞でのちのジャパンカップ勝ち馬マーベラスクラウン〔マーベラスクラウンは3歳時まだ去勢しておらず、当時は「牡馬」であった。〕を3歳馬のコースレコード(当時)で破り、5戦2勝で3歳戦を終えた。 脚部不安もあって4歳での戦線復帰は遅れ、桜花賞には間に合わなかった。サンスポ杯4歳牝馬特別で復帰すると3着に入り、オークスの優先出走権を確保するが、本番のオークスでは9着に敗れる。この2戦は橋本広喜が騎手を務めた。その後、夏までに2戦し、岡部幸雄に乗り代わったやまゆりステークス(4歳900万下特別)で3勝目をあげるが、故障のため4歳秋は全休した。 5歳は1500万下(準オープン)クラスで復帰し、2戦目の船橋ステークスで勝ってオープンに昇格。オープン昇格2戦目のエプソムカップで重賞初勝利を挙げる。このレース以降、騎手が藤田伸二となる。勢いに乗って、道新杯、函館記念〔この年の函館記念は札幌競馬場で開催。〕と立て続けに制し、オープン戦3連勝を記録する。特に函館記念は、GIIIといっても別定戦で、前年のエリザベス女王杯勝ち馬ホクトベガや、当時「ナリタブライアンを破るのはこの馬」と言われていたタイキブリザード、稀代の逃げ馬ツインターボ等、出走14頭中重賞勝ち馬9頭〔タイキブリザード等、このレースの後に初めて重賞を勝った馬4頭を含む。〕を相手に強烈な末脚を披露し、2着のタイキブリザードに残り100mで3馬身差をつける圧勝ぶりだった。 しかし、秋には調子を落とし、朝日チャレンジカップ〔この年は中京競馬場で行われる。〕では4歳馬・ツルマルガール〔ツルマルボーイの母。〕の末脚に屈し2着に終わると、自身2度目のGI出走〔古馬となってからは唯一で、自身最後のGI出走となった。〕だった天皇賞・秋はネーハイシーザーの12着。この年GIIに昇格した阪神牝馬特別(当時は芝2000m)も7着に敗れた。 明けて6歳となった京都金杯では、牝馬限定戦での惨敗もあり手薄なメンバー構成にも関わらず5番人気と評価を下げていたが、前走から騎乗したオリビエ・ペリエの好騎乗もあって約4ヶ月半ぶりに勝利を飾る。ペリエにとっては日本での重賞初制覇となった。続くGII京都記念では、8頭立てに天皇賞・菊花賞馬ライスシャワー、オークス馬チョウカイキャロル、GII勝ちのあるナイスネイチャ、ムッシュシェクルと好メンバーが集まる中、2頭のGI馬に次ぐ3番人気に支持された。レースは、チョウカイキャロルが逃げ、ライスシャワーとワコーチカコが並んで3番手を進む展開となったが、ワコーチカコが上がり3ハロン34秒4の末脚で2頭を引き離し、最後方から追い込んだナイスネイチャをしのいで、2分11秒8の当時のコースレコードで重賞4勝目をあげた。 このレースを最後に現役を引退し、繁殖牝馬となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワコーチカコ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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