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ワシャキー
ワシャキー(、1808年頃 - 1900年2月20日)は、ショーショーニー族(Shoshone、口頭発音でショーショーニー)インディアンの指導者であり、アメリカ人毛皮罠猟師オズボーン・ラッセルの残した記録では1840年に初めて登場する名高い戦士である。1851年、罠猟師ジム・ブリッジャー(1804年-1881年)の勧奨により、ワシャキーはショーショーニー族の1隊を率いての協議会に向かった。実質的にこの時からワシャキーが死ぬまで、アメリカ合衆国政府代表はワシャキーを東部ショーショーニー族の頭領と認めていた。 == 初期の経歴 == ワシャキーの青年時代について多くのことは知られていないままであるが、幾つかの家系の伝承によれば似たような起源を辿ることができる。ワシャキーはフラットヘッド族(セイリッシュ族)の父とレミー・ショーショーニーー族の母のもとに生まれた。この2つの種族はしばしば狩猟や交易を共に行う関係だった。その領土はロッキー山脈のビタールート山脈で別れていた。レミー族はアイダホのサーモン川地域、フラットヘッド・セイリッシュはビタールート渓谷を領地にしていた。ワシャキーの生まれたときの名前はピナクアナ(砂糖の香り)であり、ワシャキーと呼ばれるようになる前に他にも名前があった。 ワシャキーの生年については異論がある。1883年にある宣教師はその生年を1798年と記録し、後にその墓には1804年と刻まれた。ワシャキーの晩年に、16歳の時にジム・ブリッジャーと出遭ったとショーショーニー族代理人に語った。ブリッジャーが初めて荒野に入って行ったときの年齢から換算すると、研究者達はワシャキーが1808年から1810年の間に生まれた可能性があると結論付けた〔。ワシャキーがまだ幼い頃に、ブラックフット族インディアンがフラットヘッド族とレミー族の合同集落を襲った。このときレミー族はモンタナのスリーフォークス(ミズーリ川水源をなすギャラティン川、マディソン川およびジェファーソン川が合流するところ)近くでバッファローの狩猟に出ていた。ワシャキーの父が殺され、母と少なくとも姉妹の1人はアイダホのサーモン川にいたレミー族の元に逃げることができた。この攻撃の混乱の中でワシャキーは行方が分からなくなり、負傷した可能性がある。家族の言い伝えによれば、その地域に狩猟に来ていたバンノック族インディアンの1隊か、あるいはショーショーニー族とバンノック族の合同部隊に見つけられた。ワシャキーはその部隊指導者の養子になった可能性があるが、その後の25年間(1815年頃-1840年)、当時のショーショーニー族にとって典型的な戦士の伝統と行動様式を学んだ〔。 ワシャキーが広く呼ばれていた名前は様々に翻訳されてきたが、明らかに戦闘におけるその技量に関係している。ある説ではバッファローの皮でできた風船を膨らませて乾燥させ棒に縛り付けたものに石を置くことで、大きな音を出させる工夫をしたことを語っている。ワシャキーはこの装置を戦場に持って行き敵の馬を驚かせたので「ザ・ラトル」あるいは「ヘチマのラトル」(ラトル(Rattle)はガタガタいう音)という渾名を貰った。ワシャキーの別の訳では「走りながらの射撃」となっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワシャキー」の詳細全文を読む
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