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ワシントン砦の戦い()は、アメリカ独立戦争のニューヨーク・ニュージャージー方面作戦中に行われた戦闘である。1776年11月16日に、現在ではニューヨーク市マンハッタン島のワシントンハイツにあったワシントン砦に対し、イギリス軍が総攻撃をかけて砦の大陸軍守備隊全軍を降伏させた。 イギリス軍の指揮官ウィリアム・ハウは、10月28日のホワイトプレインズの戦いでジョージ・ワシントン総司令官の指揮する大陸軍を破った後、マンハッタン島に残された大陸軍の強固な要塞であるワシントン砦の攻略を目指した。ワシントンはこの砦を放棄してその守備兵3,000名をニュージャージーに移すことも検討したが、ナサニエル・グリーン将軍からそこを守るよう説得されていた。 11月16日、ハウは砦への攻撃を開始させた。その攻撃は北と東および南の3方向からのものだった。ハーレム川の潮汐の関係で上陸が遅れた部隊もあったので、攻撃開始が遅れた。攻撃が始まると砦の南側と東側の守備隊が早期に崩れた。砦の北側ではドイツ人傭兵部隊の攻撃に対して頑強に抵抗していたが、最終的には打ち負かされた。砦は陸と川から取り囲まれていたので、砦の指揮官ロバート・マゴーは砦を死守しようとするよりも降伏する道を選んだ。大陸軍の戦死者は59名であり、2,837名が捕虜になった。ワシントンの指揮する大陸軍本隊はこの敗北によってニュージャージーを越えてペンシルベニアまでの退却を余儀なくされたが、次のトレントンやプリンストンの戦いでの反撃に繋げた。 == 背景 == === 砦の構築と防御 === アメリカ独立戦争の間、ワシントン砦は現在のニューヨーク市マンハッタン区の北端、最も高い地点から0.5マイル (0.8 km) 以内にあり、ハドソン川を見下ろし、大陸軍が保持していた〔Ketchum p.103〕。対岸のニュージャージー側断崖上にあるリー砦と共に、ハドソン川下流をイギリス艦船から守ることが意図されていた〔McCullough p.129〕。 1776年6月、大陸軍のヘンリー・ノックス、ナサニエル・グリーン、ウィリアム・ヒースおよびイズラエル・パットナムがこの地域の地形を調べ、ここに砦を構築し適切に防御を施せば、事実上落とすことはできないということに意見が一致していた〔Ketchum p.104〕。6月下旬、総司令官のジョージ・ワシントンが現地を精査し、そこがハドソン川下流を守るための重要地点だと判断した。ワシントンが視察した直後にペンシルベニアの部隊がルーファス・パットナムの監督下に砦の構築を開始した〔Ketchum p.105〕。 ペンシルベニア部隊は1か月以上にわたりマンハッタンの高台から川縁に岩石を運び、木製の廃船や桶の集合体に積み込み川沿いに並べた〔。この拒馬の目的は、イギリス艦船がハドソン川を遡り大陸軍陣地の側面を衝くことを防止するためだった。この拒馬が完成すると砦自体の構築が始まった〔Ketchum p.106〕。そこの地形は岩盤の上にほとんど土が無かったために、崖下にある低地から土を運ぶ必要があったが、この土をもってしても砦の周りに十分な溝や塹壕を作ることはできなかった。砦が完成すると5つの堡塁のある五角形となった〔。砦の主壁は土盛であり、あらゆる角度からも大砲用の開口部がある半月堡を備えた。砦で囲まれた土地は3ないし4エーカー (8 - 10 km²)の広さがあった〔Ketchum p.108〕。岩を吹き飛ばすだけの火薬が無かったので、砦を囲む溝が無く、逆茂木があるだけだった。9月に兵舎が完成し、地域の全兵士がウィリアム・ヒース将少将の指揮下に組み込まれた。ワシントンは砦の近くにその作戦本部を構築した〔。 この砦を支えるのが夥しい数の防御部隊だった〔Ketchum p.108〕。ハドソン川に伸びるジェフリーズフック、スパイテンダイビル・クリークを見下ろす丘、キング橋とダイクマン橋を支配するマンハッタン島の北端、および砦の東でハーレム川に向かうローレルヒルには砲台が置かれた。砦の南には3つの防衛線があった。これら防衛線は丘を抜けて塹壕やたこつぼが掘られていた。第1線は0.33マイル (0.5 km) 北の第2戦に支えられ、第2線はさらに0.25マイル (0.4 km) 北に構築されることになっていた第3線で支えられる予定だった〔Ketchum p.108〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワシントン砦の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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