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ワシントン記念塔 : ウィキペディア日本語版
ワシントン記念塔[わしんとんきねんとう]

ワシントン記念塔(ワシントンきねんとう、)は、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.の中心部に位置する、ナショナル・モールの中心にそびえ立つ、巨大な白色のオベリスクの名称である。単にワシントン・モニュメントと呼ばれることや、ワシントン記念碑などと呼ばれる場合もある。1776年独立戦争時に、アメリカ大陸軍を率いてイギリス軍との戦いを勝利へと導いた合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された、アメリカ合衆国大統領記念碑の一つである。
同記念塔は、大理石花崗岩砂岩など国産の石約3万6千個で出来ている。またデザインは、1840年代アメリカで最も卓越した建築家の一人であった、によるものである。実際に記念塔が着工されたのは1848年であったが、南北戦争の介在や資金不足が重なり、建立に至ったのはミルズの死後ほぼ30年後にあたる1884年のことであった。大理石の色の明るさの違い(地上から約46メートル、150フィートほどの位置)は、はっきりと創建から工事が再開されるまでの1876年に建設されたものであることが示されている。ミルズが更に計画していたギリシャドーリア式ロトンダが、記念塔の柱礎に建設されなかったことは一般に良かったと考えられている。
基礎が起工されたのは1848年7月4日で、冠石が完成したのが1884年12月6日、そして完成の除幕式が行われたのはその翌年の1885年2月21日だった。また塔が公式に一般開放されたのは1888年10月9日である。竣工と共に、1889年フランスパリエッフェル塔が完成するまで(建設当時約312メートル)、169メートルという世界で最も高い建築物となった。
尚、ワシントン記念塔の反射影が、塔の西方向にあるリンカーン記念館前方の、長方形にかたどられたリフレクティング・プールに映るのが見える。
== 沿革 ==

=== 記念塔建設の動機 ===

アメリカ合衆国の創設者の中で唯一、ジョージ・ワシントンはその統率力がアメリカの独立をもたらしたとして認められ、「アメリカ建国の父」という名声を得た。1775年にアメリカ大陸軍指揮官に任命された彼は戦闘部隊を形成し、当時のイギリスから独立を勝ち取ったのである。1787年にはアメリカ合衆国憲法制定会議の議長として、その後200年以上続く政府を協会するための協議を結論へ導く手助けをした。彼がアメリカ合衆国議会満場一致で合衆国の初代大統領に選出されたのはその2年後のことである。彼は大統領の任期を決定し、司法立法行政の3つの政府部門の結びつきを進展させる手助けをした。また判例法を設立し、出来て間もない政府を首尾よくそのとるべき針路へと送り出した。彼はうわべだけの権力を拒み、君主的政府や伝統を転換した。それまでと違った方法で政策の指揮を執るという相当な重圧があったにも関わらず、彼は2度アメリカで最も権力のある地位に仕え、その後3選目を辞退した。ワシントンは完全な政治家であったが為に、彼が下した決定や行動から起こった各方面への波及には、依然として注意が払われている。
アメリカ独立戦争が終結した際、合衆国にはワシントンほど敬意を払って指揮をした国民はいなかったと考えられた。アメリカ国民は限られた備蓄や未経験の兵士にも関わらず戦争に勝利した彼の能力を祝した。また給料の受け取りを拒否した彼の決定に敬服し、経費のみの返済を快く容認した。更に数人の軍将校が、ワシントンを新たに建国される国の国王に選出するとした提案を断ったことが世間に知られたとき、国民の彼への敬意はそれまで以上に増大した。彼が成し遂げたことだけではなく、彼のやり方もまた敬服される対象であった。合衆国2代目大統領、ジョン・アダムズの妻であったアビゲイル・アダムズは、彼を「威厳があり上品、馴れ馴れしくなく親しみがあり、傲慢でなく淡々として、厳格過ぎず威厳があり、穏当で賢く、よき人である。」と称えている。
戦争後ワシントンはマウントバーノンの農園に隠退するが、彼はすぐに公務の生活に復帰するかどうか決めなければならなかった。連邦政府にとって連邦規約が税金の徴収、貿易の規制またはその境界の統制を行うのに支配力が余り無いままであることがはっきりしてくると、後に第4代合衆国大統領となるジェームズ・マディソンらが政府の権力を強化するであろうとの考えから議会を招集し始める。ワシントンはマウント・バーノンの経営や事業関連の仕事があり、議会への出席には気が乗らなかった。しかしもし彼が議会の行われるフィラデルフィアに赴かなければ、彼自身の名声はおろか合衆国の先行きをも憂慮することになっていたであろう。最終的に彼はバージニア州代表の一人として公職を務めることを決めた。1787年夏期の他の代表は、最終的にアメリカ合衆国憲法を創り出すこととなる協議の議長にワシントンを選出した。

憲法のカギとなる部分の一つは、合衆国大統領という地位の造成であった。誰一人としてワシントンよりもその地位につく資格のある人間がいるようには思われず、1789年を皮切りにワシントンの2期に渡る大統領期間が始まった。彼は国民の彼への尊敬を、新しい大統領職の尊敬へと発展させるために利用したが、新しいアメリカがそれまで戦っていた国と同じように、アメリカ大統領もまた強権力になるのではないかという懸念を自発的に和らげようともした。また彼は国民が米国国法銀行(当時)の援助、支出に報いるための税金徴収、陸軍や海軍の強化を必要としていると考え、堅固な政府を創設しようとした。国民の多くが3期目も大統領職に残る事を望んだが、1797年に再びワシントンはマウント・バーノンに退いた。
その2年後、ワシントンは急逝する。彼の死は大きな悲しみを呼び、再び彼を尊敬する試みがなされた。以前の1783年初頭に、大陸議会は「ジョージ・ワシントンの乗馬像が、議会邸宅が建設されるであろう場所に創設される」ことを決議した。またこの計画は銅像に「合衆国の自由、主権、独立が立証された戦争における、アメリカ合衆国陸軍最高指揮官ジョージ・ワシントンの輝かしい功績を称えて」建てられたことを説明する文の彫刻を求めていた。政府が常置の本拠地を欠いている間大きな騒動などが何も起こらなかった理由は容易に理解できたにも関わらず、議会がワシントンD.C.を新たな首都として固定した後でさえ殆ど進歩が無かった。いかに幾年も渡って議会がワシントンを頼りにしていたかがわかる。
ワシントン大統領の死から10日後、議会委員会は乗馬像とは異なる形式の記念碑の建設を推奨した。バージニア州代表ですぐ後にアメリカ合衆国最高裁判所長官になった、ジョン・マーシャルは、アメリカ合衆国議会議事堂内にワシントンの墓石を建設することを提案した。しかし資金不足のために、どのような記念碑が合衆国最初の大統領をの栄光を称えるに最も相応しいかを巡って意見の相違が相次ぎ、また遺体の移転に気が進まないワシントンの遺族らの嫌気が、議会の計画の進展を妨げた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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