|
ワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(, 1869年11月15日(ユリウス暦では11月3日) - 1930年8月19日)は、ロシア・ソ連の歴史家。中央ユーラシア史の解明に大きな功績を残した。欧米諸国ではヴィルヘルム・バルトルトという名でも知られる。 == 生涯 == 1869年、裕福なドイツ系株式仲買人の子としてペテルブルクに生まれる。その洗礼名はヴィルヘルムで、欧米ではヴィルヘルム・バルトルトとも呼ばれる。 早くから歴史に強い関心を抱き、ギムナジウム在学中の1886年にモンゴル史の梗概を書いたという。翌年ペテルブルク大学東洋語学科に入学し、アラビア語、ペルシア語、トルコ語を専攻し、ヴェセロフスキーおよびローゼンのもとで中央アジア史やイスラーム中世史を学んだ。在学中に処女論文『中央アジアにおけるキリスト教』を著わし、銀メダルを受賞する。またアカデミー会員ラドロフの知遇を得て、当時の第一線の東洋学者らとの交流を持った。 1891年に大学を卒業するとローゼンの勧めでヨーロッパに遊学し、1896年に帰国してペテルブルク大学非常勤講師となった。1900年に著わされた学位請求論文『モンゴル侵攻期のトルキスタン』は一次史料と現地調査の成果を駆使して7世紀末から13世紀までの中央アジア史の全体像を論じたもので、彼の最高傑作とされ、現在でもこの分野における古典的論考となっている。これは本来学士号を得るために書かれたが、大学は論文の内容の優秀さを認めて彼に博士号を与えた。そのため翌1901年にペテルブルク大学客員教授となり、1906年には正教授となった。1913年にはロシア科学アカデミーの会員となり、のちに東洋学者協議会常任議長に選出された。 ロシア革命後も大学にとどまって教鞭をふるうかたわら、世界各国を訪れて現地調査や講演を行なった。彼自身はマルクス主義的歴史家ではなく、ソ連の民族政策にも批判的であったが、厳密な史料批判に基づく実証的な文献史学によってソビエト東洋学の確立に多大な貢献を行なった。1920年代末から「マルクス主義歴史家」たちによって執拗な攻撃が加えられたが〔山内昌之による「トルキスタン文化史」翻訳書評 〕、大粛清のはじまる前の1930年、レニングラードで死去した。 しかし、その後、バルトリド学派の弟子たちは「ブルジョワ的」として粛清の犠牲になった者もいた〔山内昌之による「 トルキスタン文化史」翻訳書評 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワシーリィ・バルトリド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|