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ワトリング街道の戦い(ワトリングかいどうのたたかい、英:Battle of Watling Street)は、60年または61年頃にグレートブリテン島で、イケニ族の女王ブーディカが率いるケルト人先住民のブリタンニア諸族同盟軍と、ガイウス・スエトニウス・パウリヌスが指揮するローマ軍団との間で起こった戦い。 ローマ帝国側にとっては兵士の数が1対20と圧倒的に不利な状況であったが、それを覆し勝利を得て、グレートブリテン島での影響力を維持することに成功した。支配下に置いていた地域の中には大打撃を被ったところもあったが、この勝利によりローマのブリタンニア支配は410年に終焉をみるまで続いた〔グラハム・ウェブスター『Boudica: the British Revolt Against Rome, AD 60』 1978年。〕。 戦場の正確な位置は判明していないが、戦場はロンディニウム(現在のロンドン)とウィロコニウム(en)(現在のシュロップシャー州Wroxeter)との間、ローマが築いたワトリング街道であったというのが歴史家たちのほぼ一致した見解である。 なお、「ワトリング」の名はのちにアングロサクソン人によってつけられたもので、この戦いの名称に用いるのは本来時代錯誤でもある。 ==背景== 43年、ローマ帝国は規模の小さな王国が多数並存していたブリタンニア南東部への遠征の途上にあった〔カッシウス・ディオ『ローマ史』19-22 〕。ただし、征服と言ってもそれは比較的緩やかなもので、軍事的に占領された王国もあったが、一方で帝国と同盟を結び自治を維持していた国も多数存在した〔タキトゥス『アグリコラ』 14〕。 そのような独立王国のひとつ、現在の東ブリタンニアノーフォーク地域を支配していたイケニ族の王プラスタグスは、自身の死後も独立を保とうと、王位継承権を持つ二人の娘とともにローマ皇帝を共同統治者とする遺言を残した。しかし、彼が60~61年頃に亡くなると、彼の思惑は無視された。ローマ人は領地を奪い、非道にも彼の家族に大変な屈辱を味わわせた。彼の未亡人ブーディカは鞭打たれ、二人の娘は辱められた〔タキトゥス『年代記』14.31 〕。さらに奢侈な生活を好んだ行政長官デキアヌス・カトゥスやローマの財政官たちは、債務の返済に充てるためイケニ族の財産を没収し重税を課したとも推測されている〔ディオ『ローマ史』62.2 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワトリング街道の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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