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ワナトの戦い : ウィキペディア日本語版
ワナトの戦い[わなとのたたかい]

ワナトの戦い(ワナトのたたかい)とは、2008年7月13日にアフガニスタン東部のヌーリスターン州ワーイガル郡クアム近郊で、ターリバーンなどの数百人のゲリラ部隊がアメリカ軍部隊を襲撃した事件である。防御側の主な部隊はアメリカ陸軍第173空挺旅団第503歩兵連隊の第2大隊に属するチョーゼン中隊第2小隊の兵士達だった。
ターリバーンはクアムや周囲の農地からこのアメリカ軍前哨陣地やその監視所を包囲して攻撃した。ターリバーンはアメリカ軍の重火器を破壊し、アメリカ軍の戦線を突破し、大砲や航空機によって撃退される前に基地本体に突入した。アメリカ兵の被害は死亡9人、負傷27人であり、アフガン国軍の兵士4人も負傷した。アメリカ兵の戦死者数は2001年の任務開始以来、単一の戦闘としては最大のものになった〔; http://militarytimes.com/news/2009/09/army_wanat_investigation_093009/〕。
ワナトの戦いはこの戦争で最も血なまぐさい攻撃の1つであり、遠隔地の前哨への数度に渡る攻撃の1つだった為、アフガン戦争における「ブラックホーク・ダウン」だと言われている。この攻撃より前の路肩爆弾や遭遇戦、待ち伏せ攻撃とは対照的に、この攻撃では多数の反乱軍やテロリスト集団の兵士がよく協力し、訓練と不断の努力を持ってTOWランチャーのような主要装備を正確に狙った。
連合国の被害者数が甚大だったため、この戦いは幅広い討論の中心になり、「外部の第三者や軍事専門家の間で、多くの関心と調査を引き起こ」した。いくつかの調査は戦いに至るまでの出来事に向けられた。最初の調査は2008年8月に完了したが、2009年7月にジェームズ・ウェブ上院議員が合衆国陸軍に対して、戦闘と最初の調査についての公式調査を要請した。リチャード・F・ナトンスキー中将は2009年後半に別の調査を指揮して、命令系統を譴責処分にした。しかし2010年6月、合衆国陸軍は譴責処分を取り消し、怠慢はなく「勇気と技術によって、兵士達は持ち場の防衛に成功し、決意と技術と適応力を持った敵を打ち負かした」と述べた。
== 背景 ==

2008年、アフガニスタン南部のNATO軍はパキスタンの連邦直轄部族地域からターリバーンへの補給を絶つために、パキスタン国境で半個中隊規模のパトロールを展開した。彼らは小規模のパトロール基地を作ったが、ターリバーン軍によるたび重なる攻撃を受けた。6月、48人のアメリカ兵と24人のアフガン国軍兵で構成された計72人の小規模な分遣隊はワナトとその周辺のクアム山で任務を行っていた。ワナトはワーイガル郡の郡庁の所在地であり、NATO軍の軍事基地ブレッシング駐屯地から5マイルの位置にあった。7月4日、アメリカ陸軍のヘリコプターが民間人を攻撃し、17人を殺害した。被害者には地元医院の全ての医師と看護婦が含まれていた為に、地元のアフガン人達の感情は悪化した。ベラ前線基地は間接射撃を受け、状況報告によると前哨基地は蹂躙寸前となってしまった。
ヘリコプターによる攻撃は、ピックアップトラックのトヨタ・ハイラックスの荷台から発射される迫撃砲の間接射撃に対する反撃だった。傍受された最初のターリバーンの無線送信は「大砲への命中」(迫撃砲)と指揮官の死亡を報告した。ヘリコプター攻撃から数時間後、チョーゼン中隊の指揮官からの命令と確認を受けて、先遣隊が目標を確認した。ターリバーンの無線送信は「奴等は店長(指揮官を意味)を殺した、大砲への損害は無く、敵が殺害・負傷したのは全て民間人だ」と変わった〔JSalazar〕。戦闘から5日前の7月8日、第173空挺旅団第503歩兵連隊第2大隊の1個小隊が車両パトロール基地(VPB)「ケラー」と「OPトップサイド」遠隔監視所をワナトの近くに作った。7月8日、チョーゼン中隊の第2小隊は日没後に地上強襲護送船団に分乗してブレッシング駐屯地を出発し、90分の旅程を経てワナトに到着した。護送船団の車列は5台のM1114装甲ハンヴィーで構成され、最初の3両にはライフル分隊が1個分隊ずつ乗車し、小隊司令部の車両の後に、TOWミサイル分隊の車両が続いた。このハンヴィーは重装備で、装甲砲塔にブローニングM2重機関銃2機とMk19 自動擲弾銃2機を搭載していた〔。部隊の目標は地元住民と連絡して治安を守る戦闘監視所(COP)を設置し、140万ドルの再建プロジェクトを調整して、ターリバーンの活動を妨害することだった。この旅団は2週間後に到着する新しいアメリカ陸軍部隊と交代する予定だった。
パトロール基地は縦約300メートル・横100メートルの平野にあり、両側にはクアム山の地形を利用して平野を取り囲むように作った建物があった。7月9日、6人の技術者分隊がチヌークヘリコプターに乗って到着した。彼らはボブキャット・カンパニーのショベルカーや設備の入った輸送コンテナを運んできた。兵士達は既存の地形に合わせて基地を建設し、砂袋や鉄条網を配置し、ショベルカーを使ってヘスコ防壁(壁になるほどの大きさの砂袋)に砂を詰めた。それらは3個分隊の持ち場を取り囲むように配置され、120ミリ大型迫撃砲の射撃場所も作られた〔 。しかしショベルカーは1日で壊れたので、7フィート(約2メートル)の高さまで十分に上げる事はできなかった。4フィートの高さでは侵入者の用いる銃やロケット砲からの遮蔽が出来ず、敵に直接撃たれてしまうので、兵士達はシャベルで陣地と塹壕を沢山作った。攻撃されるまでに鉄条網の設置が間に合わず、一部の区画では固定用の杭も使わずに、地面に直接鉄条網を張るにとどまった。〔。
重建設機械はアフガンの企業が運んでくる契約だったが、到着は7月13日まで遅れた。兵士達が技術者分隊を手伝い、更にショベルカーが動いていれば、重機が到着するまでの6日間で初期防衛の準備は万全だったはずである。この地方の反乱軍の兵力は約150人のベテラン兵だけという情報があったので、基地の兵士達は十分に守ることが出来ると思っていた。しかしパキスタンやカシミール辺りまでのアルカーイダやゲリラ集団が援軍に駆けつけている事は知らなかった。基地の兵士達は基地が準備できるまでに攻撃される可能性があるとは思っていたものの、実際にはありそうも無いと思っていた。ドズウィック小隊軍曹は後に「私はあらゆる方位の高所から擾乱射撃を受けるとは思っていたが、まさか村自体がAAF(反アフガン軍)に寝返って自分達の村を戦闘地帯にするとは思って居なかった」と述べた。
基地の兵士達は危険な兆候に気づいており、監視所より標高が高い近くの村から建設作業を監視する男達が居て、近くの山脈から移動する他の集団が居ることにも気づいていた。村での夕食会で、村民はアメリカ兵達に山脈に居る男達を見かけたら撃つべきで、無人航空機(UAV)に近隣を監視し続けるように頼んだ〔。攻撃の前日、民兵は未開拓地の灌漑水路に水を流して騒音を作り、進撃する兵士達の足音を隠した。
アメリカ兵達は基地を攻撃するのは100人か200人だと思っていたが、匿名のアフガン国防省の官僚はアルジャジーラに、400人から500人だと言う情報を持っていたと話した。タミム・ヌーリスターニ(前ヌーリスターン州知事)はおびただしい数のターリバーンやパキスタン民兵やテロリスト集団が、クナル州やパキスタンのバジャウル管区などから集まったと考えている。集まったのはターリバーンやアルカーイダ、カシミールのラシュカレトイバやパキスタンの(2013年まであった連邦直轄部族地域のバージャウル管区の要塞の1つで、アフガニスタンのクナルやヌーリスターンの部族地域を管轄していた)イスラーム党などだった。多くの諜報情報によると、ウサーマ・ビン・ラーディンアイマン・ザワーヒリーなどのアルカーイダの上級指揮官は、この地方に匿われていると考えられている〔。ターリバーンの報道担当者は「アフガンでの戦闘はどんどん激しくなっている。アメリカ兵が市民に爆弾を落とす度に普通の人達が復讐を望み、ターリバーンに参加し、基地に侵入してアメリカ兵を殺す方法を教えてくれる」と述べた。NATOの報道担当者はターリバーンはヘル村(部族地域にある小規模な村)の近くまで、攻撃のために進撃したと思っていた。7月12日の夜、ターリバーンの兵士達はワナトに来て、村人に立ち去るように命じた。ISAF軍やANSF軍(アフガン治安軍)が気づかないうちに、ターリバーンはKorsの内側やモスクの隣、基地の境界線を見下ろす射撃位置に陣取った〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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