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ワルシャワ・ゲットー (Getto Warszawskie) は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがポーランドのワルシャワ市内に設置したゲットー(ユダヤ人隔離地域)である。ナチスが創設したゲットーの中では最大規模のものである。 == ゲットーの歴史 == === 前史 === ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-134-0791-05A, Polen, Ghetto Warschau, Juden beim Gebet.jpg|ユダヤ教の祭祀でトーラーを読む聖職者 ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-134-0780-02, Polen, Ghetto Warschau, Jüdische Männer.jpg|ゲットー内の正統派信者 ユダヤ人は15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていたが、1527年にポーランド王国国王ジグムント1世はユダヤ人がワルシャワ(現在のワルシャワ旧市街の城壁の内側)に住む事を禁止した。ただしユダヤ人たちは王室の許可のもと、旧市街の南東側、ワルシャワ王宮とヴィスワ川の間の一帯に自分たちの街(のち18世紀に再開発され、マリエンシュタット地区となる)を建設して商売や自治をおこなう権利を認められた。このような自由居住区は「シュテットル」と呼ばれ、強制居住区である「ゲットー」と区別される。ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。旧市街のユダヤ人居住制限も18世紀末以降に徐々に緩和されていき、旧市街にユダヤ人が住むことも問題とされなくなった。 のち19世紀半ばより旧市街の南と西の一帯に近代の市街地が急速に発展していくと、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街や新市街(中世の新市街であり歴史地区の一部)には貧困層が集中して住むようになった。この状態は20世紀のはじめまで続いた。 19世紀中頃と20世紀に入ってからの二・三十年間にワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ワルシャワのユダヤ人共同体(ケヒッラー)が急成長した〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)661ページ〕。第二次世界大戦直前のワルシャワ市には37万5,000人のユダヤ人が暮らしていた。これはワルシャワの全人口の30%を占めていた。世界的にもワルシャワは、アメリカ合衆国の都市ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった〔マイケル ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)163ページ〕。 ワルシャワ市のユダヤ人は大多数がマリエンシュタットとは別に旧市街地の西側に近代になって新しく形成されていた広大なユダヤ人街にまとまって暮らしていた。ここはユダヤ教徒のうち会社員や商店主などの中間所得層や実業家や高級官僚などの富裕層がたくさん住んでいた。この地区では公用語のポーランド語ではなく、ユダヤ人同士ではイディッシュ語が話されるなど独特なユダヤ人共同体が形成されていた。当時のヨーロッパでもっとも高いビルは街のユダヤ系実業家によってここに建てられたオフィスビルで、これは奇跡的にも第二次大戦の戦火で崩壊せず、現在まで残っている。ワルシャワのユダヤ人たちのなかにはユダヤ教正統派が多数いた。彼らは黒い服装をして、男性は髭を生やし、こめかみの毛をカールにするという典型的なユダヤ人風の容貌をした人たちだった〔ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)51ページ〕。いっぽうで、映画『戦場のピアニスト』のモデルとなったヴワディスワフ・シュピルマンのような、ユダヤ系の家の出でも世俗的な人々もたくさんおり、彼らはキリスト教徒のポーランド人たちに混じり、キリスト教徒たちと変わりなくワルシャワの各界で活躍し、一部はキリスト教徒に改宗してキリスト教徒の社会に入っていた。このようにワルシャワのユダヤ教徒の社会は伝統的に多様な人々で構成されていた。ユダヤ人街は正統派をはじめとした保守的な傾向のある人々が多く住んでおり、より世俗的ないし非ユダヤ教的な人々は他の地区の住宅地でキリスト教徒たちに混じって住んでいることが多かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワルシャワ・ゲットー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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