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ワルドー・フォン・エリック(Waldo Von Erich、本名:Walter Paul Sieber、1933年10月2日 - 2009年7月5日)は、カナダ・オンタリオ州トロント出身のプロレスラー。 フリッツ・フォン・エリックの「弟」を名乗り(実際には血縁関係はない)、ナチス・ギミックの冷酷なドイツ人ヒールとして悪名を轟かせた。 == 来歴 == YMCAにてレスリングのトレーニングを積み、1950年にカルガリーにて17歳でデビュー。ワルドー・フォン・ジーバー(''Waldo Von Sieber'')またはカール・フォン・ジーバー(''Karl Von Seiber'')の名義でカナダ各地を転戦後にアメリカへ進出し、1950年代後半にフリッツ・フォン・エリックと邂逅。ワルドー・フォン・エリック(''Waldo Von Erich'')と改名してフリッツとの兄弟タッグチームを結成し、1958年10月にミッドアトランティック地区のNWA南部タッグ王座を獲得した。 フリッツとのコンビを一時解消後、1960年代初頭は、ミスターM(''Mr. M'')、ザ・グレート・ズィム(''The Great Zim'')、ザ・グリーン・ホーネット(''The Green Hornet'')、エル・ティグレ(''El Tigre'')などのリングネームで覆面レスラーに変身したこともある。素顔のワルドー・フォン・エリックに戻っての1963年には、中西部の各地にてウイルバー・スナイダー、カウボーイ・ボブ・エリス、クラッシャー・リソワスキー、ザ・シークらと対戦した。 1964年、ニューヨークのWWWFに参戦。8月22日、9月21日、10月19日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦した。翌1965年2月4日にはジン・キニスキーと組んでジェリーとルークのグラハム兄弟からUSタッグ王座を奪取。同年8月2日のMSG定期戦では、当時WWWFでベビーフェイスのポジションにいたジョニー・バレンタインと対戦している〔。 1966年より、フリッツ・フォン・エリックがテキサス州ダラスにて設立したNWAビッグタイム・レスリングにてフォン・エリック・ブラザーズを再結成。1967年2月21日にアル・コステロ&カール・フォン・ブラウナー、9月11日にブルート・バーナード&マイク・パドーシスを破り、NWAアメリカン・タッグ王座を2度に渡って獲得した。 その間の同年4月、日本プロレスの『第9回ワールドリーグ戦』に「ドイツ代表」として初来日。ザ・デストロイヤーに次ぐ外国人陣営の2番手となって優勝戦線を撹乱した。5月開幕の『アイアンクロー・シリーズ』にも残留出場し、シリーズのエースとして参戦したフリッツとの兄弟タッグを日本でも実現させ、5月23日に大阪府立体育館にて、ジャイアント馬場&吉村道明のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。翌1968年1月には、グレート東郷のブッキングでTBS体制下の国際プロレスに来日、ナチス・ギミックの先達であるハンス・シュミットともタッグを組んだ。 1960年代末はオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征。1969年4月4日、シドニーにおいてマリオ・ミラノと組み、ドン・レオ・ジョナサン&アントニオ・プリエーゼからIWA世界タッグ王座を奪取している。帰米後は1971年3月、中南部のNWAトライステート地区にてカール・フォン・ブラウナーをパートナーに、ビル・ワット&ビリー・レッド・ライオンを下して同地区のUSタッグ王座を獲得した。 以後、1970年代はシングル・プレイヤーとしての活動に専念し、1971年4月より五大湖エリアのNWFに登場。同年11月20日、オハイオ州クリーブランドにてジョニー・パワーズを破り第2代のNWF世界ヘビー級王者となった(12月8日にドミニク・デヌーチに王座を奪われるが、翌1972年1月5日に奪回。6月9日にアーニー・ラッドに敗れるまでタイトルを保持した)。 1972年の秋には日本プロレスに再来日し、10月18日に高崎にて坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している。1973年から1974年にかけては再びオーストラリアにて活動、スパイロス・アリオンからNWA豪亜ヘビー級王座を奪取し、タッグではヒロ・トージョーことサムソン・クツワダとの日独戦犯コンビで活躍した〔『Gスピリッツ Vol.22』P87-88(2012年、辰巳出版、ISBN 4777809846)〕。1975年は第2次政権時代のブルーノ・サンマルチノの首を狙い、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えて久々にWWWFに登場。8月27日にはペンシルベニア州ハンブルクにてアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。 1976年9月、NWFでの抗争相手でもあったアブドーラ・ザ・ブッチャーと共に全日本プロレスに来日。9月30日に岩手県営体育館にて、ブッチャーと組んで馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑み、大木金太郎のアジアヘビー級王座にも2回挑戦した。1977年には覆面レスラーのザ・グレート・ズィムとして、NWAトライステート地区にてテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取したが、同年3月1日、ディック・マードックに敗れて王座から陥落。これが最後のタイトル戴冠となり、1979年に引退した〔。 晩年は地元オンタリオのケンブリッジを拠点とするインディー団体ICWに参画していた〔。2009年7月5日、オンタリオ州キッチナーの病院にて死去。。 なお、1980年代後半にダラスのWCCWでワルドーの息子と称するランス・フォン・エリック(ウィリアム・ヴォーン)がフォン・エリック兄弟(ケビン、ケリー)の従兄弟として活動していたが、フリッツとワルドーの兄弟設定と同様にギミック上のフィクションであり、ワルドーやフォン・エリック・ファミリーとの血縁関係はない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワルドー・フォン・エリック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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