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ヴァルター・クリューガー(Walter Krüger、1890年2月27日-1945年5月22日)は、ナチス・ドイツの武装親衛隊の将軍。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)。主に東部戦線で戦っていた軍人。 同じく親衛隊大将であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーは弟である。 == 経歴 == プロイセン王国陸軍大佐アルフレート・クリューガーの息子として当時プロイセン王国領だったストラスブール(現フランス)に生まれた。プロイセン陸軍士官学校卒業後、少尉に任官して第一次世界大戦中は第110軽歩兵連隊に配属された。二度負傷して一級鉄十字章を受章した。戦後も軍に残ったが、バルト地域で義勇軍(フライコール)活動にも参加した。 1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握した際にも国防軍にいたが、1935年4月に親衛隊中佐として親衛隊特務部隊(武装親衛隊の前身)ゲルマニア連隊に迎えられた。弟のフリードリヒもこの年に突撃隊(SA)から親衛隊(SS)に移籍している。まもなくヴァルターはバート・テルツの親衛隊士官学校の教官となった。1939年1月に親衛隊大佐となり、1940年1月から10月にかけては警察部隊の参謀将校となった。1941年4月には親衛隊少将となり、1941年8月から12月にかけて第4SS警察装甲擲弾兵師団の師団長を務めた。同師団はレニングラードの戦いでレニングラードの包囲にあたった。1942年1月に親衛隊中将となる。1943年3月から10月にかけて第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」の師団長をつとめ、クルスクの戦いに参加した。その後は第6SS所属武装軍団(ラトビア人義勇兵軍団)を率いた。1944年6月に親衛隊大将となる。1945年に軍団はクーアラントで降伏し、東プロイセンへ逃れようとしたところをソ連軍に発見され、1945年5月22日に自決した。弟フリードリヒも先立つ5月9日に自決している。 弟フリードリヒはポーランドのSS警察高級指導者を引き受けてしまい、ユダヤ人虐殺に関与することとなったが、兄ヴァルターは基本的に武装親衛隊のみで活躍し、ユダヤ人虐殺に直接は関与しなかったので弟より評価が高いところがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァルター・クリューガー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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