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ヴァルター・シュミット(Walter Schmitt、1879年1月13日 - 1945年9月18日)は、ナチス・ドイツの親衛隊の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ「親衛隊人事本部」(SS Personalhauptamt)の本部長を務めた。親衛隊大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)。 == 略歴 == 1879年1月13日、ハンブルクで生まれる。1899年1月13日に士官候補生として第77歩兵連隊に入隊する。1900年から1899年まで陸軍士官学校に出席し、陸軍中尉まで昇進している。第一次世界大戦においては1914年9月9日にフランス軍の捕虜になり、1918年7月にスイスで釈放された。帰国後は、陸軍に在籍したが、1920年12月31日に少佐の地位で退役した。 1921年1月からはハンブルクの織物会社の人事管理者として働いた。ハンブルク=ヴィルヘルムブルク(:de:Hamburg-Wilhelmsburg)の労働裁判所の調停委員と裁判官の名誉準会員だった。1927年まで国家人民党員だった。 1931年8月に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号592,784)。1931年10月には織物会社の人事管理者から解雇される。1932年1月からは突撃隊に入隊した。1932年2月8日に親衛隊に入隊した(隊員番号28,737)。1934年2月16日に親衛隊少佐に昇進し、親衛隊事務局におけるハインリヒ・ヒムラーの人事参与として活動するようになる。1935年6月1日には親衛隊上級大佐に昇進する。また親衛隊全国指導者個人幕僚でもあった。1936年1月30日に親衛隊少将に昇進、同時に親衛隊本部の人事部門の局長に任じられた。1937年には親衛隊中将に昇進している。 1939年6月から「親衛隊人事本部」(SS Personalhauptamt)の本部長に任命された。1942年4月20日に親衛隊大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenführer und General der Waffen-SS)に昇進した。同年10月1日に病により親衛隊人事本部長の地位を降りることとなった。後任はマキシミリアン・フォン・ヘルフが務めた。この後、敗戦まで再び親衛隊全国指導者個人幕僚に戻る。1943年5月からは国会議員を兼務した。 戦後チェコスロバキアの法廷にかけられ、死刑判決を受けた。1945年9月18日にプラハで処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァルター・シュミット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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