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ヴィシャタ()は11世紀半ばのルーシのヴォエヴォダである。ノヴゴロドのポサードニク・オストロミールの子。 1043年、キエフ大公ヤロスラフの命によって、ノヴゴロド公ウラジーミル(ヤロスラフの子)と共にビザンツ帝国への遠征(ru)に派遣された。その際に、嵐によってルーシの多くの船が破損したため、6000人の軍勢は陸路を採ることになった。ドルジーナたちは誰もその行軍を指揮したがらなかったが、ヴィシャタのみが引き受け、軍勢を引き受けビザンツへと侵入した。しかしヴィシャタはビザンツ軍に破れ、多くの軍兵と共にヴィシャタも捕虜となった。3年後に講和条約が結ばれ、ヴィシャタは(おそらく目を潰されて)解放された。 1064年、ヴォルィーニ公ロスチスラフ(上記のノヴゴロド公ウラジーミルの子。)が自身の持つ継承権に拠ってノヴゴロド公に就くのを支援した。公位奪取が不首尾に終わったのちも、ノヴゴロドの名家・ポレーと共にロスチスラフを支援した。その後キエフ大公ヤロスラフに仕え、キエフで死亡した。ヤンとプチャタという2人の子の存在が確認されている。 ==参考文献== *Вышата // ブロックハウス・エフロン百科事典 СПб., 1890—1907. *Янин В.Л. Новгородские посадники. 2-е изд., перераб. и доп. М., 2003. *Творогов О.В. Вышата // Словарь книжников и книжности Древней Руси. Л., 1987. Вып. 1. *Свердлов М.Б. Генеалогия в изучении класса феодалов на Руси XI-XIII вв. // Вспомогательные исторические дисциплины. Т. IX. Л., 1979. *Поппэ А.В. Родословная Мстиши Свенельдича // Летописи и хроники. 1973 год. М., 1974. 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィシャタ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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