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ヴィスコンティ家(Visconti)はイタリアの貴族の家系。13世紀には一族からローマ教皇グレゴリウス10世(1210年 - 1276年、在位1271年 - 1276年)を出し、都市国家であったミラノの支配権を確立、1395年にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが皇帝に認められてミラノ公になった家である。15世紀に途絶えると、その後はスフォルツァ家に支配権は移行した。映画監督ルキノ・ヴィスコンティもこの一族の流れであるが、ミラノ公ジャン・ガレアッツォの筋ではない。 == 主な人物 == ;テオバルド・ヴィスコンティ(1210年 - 1276年) :ローマ教皇。グレゴリウス10世(教皇在位1271年 - 1276年)。 ;オットーネ・ヴィスコンティ(en)(1213年 - 1295年) :1262年からミラノ大司教を務め、1277年にミラノのシニョーレ(僭主、藩主)になる(シニョーレの在位年(以下『在位』とのみ表記):1277年 - 1278年、1282年 - 1295年〔これ以降のシニョーレ在位年は「別巻 世界歴史地図」『図説 世界の歴史』(学習研究社)、1979年による。〕)。ミラノがローマ帝国からの独立性を強めた時期である。 ;マッテーオ・ヴィスコンティ1世(en)(1250年 - 1322年) :オットーネの甥の息子。ミラノ僭主(在位:1287年 - 1302年、1311年 - 1322年)。彼の弟ウーベルトの16代目子孫が有名な映画監督のルキノ・ヴィスコンティである。 ;ガレアッツォ・ヴィスコンティ1世(1277年 - 1328年) :マッテーオ1世の息子。ミラノ僭主(在位:1322年 - 1327年)。 ;アッツォーネ・ヴィスコンティ(en)(1302年 - 1339年) :ガレアッツォ1世の息子。ミラノ僭主(在位:1329年 - 1339年)。 ;ジョヴァンニ・ヴィスコンティ1世(1290年? - 1354年) :ガレアッツォ1世の弟。ミラノ僭主(在位:1339年 - 1354年)。ミラノ大司教(在位:1342年 - 1354年)。 ;ルキーノ・ヴィスコンティ1世(1287年? - 1349年) :ガレアッツォ1世、ジョヴァンニ1世の弟。ミラノ僭主(在位:1339年 - 1349年)。 ;マッテーオ・ヴィスコンティ2世(1319年?-1355年) :ガレアッツォ1世とジョヴァンニ1世の弟ステーファノの息子。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1355年)。 ;ガレアッツォ・ヴィスコンティ2世(1321年 - 1378年) :マッテーオ2世の弟。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1378年)。 ;ベルナボ・ヴィスコンティ1世(1323年 - 1385年) :マッテーオ2世、ガレアッツォ2世の弟。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1385年)。 ;ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年 - 1402年) :ガレアッツォ2世の息子。1386年、ミラノ大聖堂の建設に着手。1395年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルにより、はじめてミラノ公の称号を得る。ヴィスコンティ家の絶頂期である(在位:1378年 - 1395年、公爵在位:1395年 - 1402年)。 ;ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ(1388年 - 1412年) :ジャン・ガレアッツォの息子。1402年、母の摂政の下でミラノ公となった(在位:1402年 - 1412年)。 ;フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ(1392年 - 1447年) :ジョヴァンニ・マリーアの弟で、1412年兄が暗殺され、ミラノ公となる(在位:1412年 - 1447年)。フィリッポの死後はスフォルツァ家にミラノの支配権が移る。 ;ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ(en)(1425年 - 1468年) :フィリッポ・マリーアの娘。傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァと結婚。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィスコンティ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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