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ヴィスワ作戦[う゛ぃすわさくせん]
ヴィスワ作戦(、)は、第二次世界大戦後の1947年に、ポーランド南東部のウクライナ系住民(ボイコ人、レムコ人を含む〔ボイコ人、レムコ人はいずれも、本来カルパティア山脈の山岳地帯に居住していたウクライナ系の言語話者の民族カテゴリーである。ボイコ人は、ルテニア人(ルーシ人)の言語とされるルテニア語(ウクライナ語の方言とされるが、別個の言語とされる場合もある)の方言を話す集団。レムコ人は、レムコ語(ウクライナ語、ルシン語、チェコ語などの方言とされることがある)を話し、ルシン人としてのアイデンティティを持つ(ウクライナ人のアイデンティティを拒む)人々のうち、ポーランドの南東部に住んでいた人々の集団。ポーランド国内については、ルシン人とほぼ同義。〕)を強制移住させた、ポーランドの共産主義政権による政策のコードネーム。その目的は、ポーランド国内で展開されていたウクライナ蜂起軍(UPA)などによる抵抗運動を壊滅させることにあった〔 ">Twoje Bieszczady / UPA - Ukraińska Powstańcza Armia. Operacja "Wisła" (Wschód). 〕〔http://akcjawisla.semper.pl/rozdzial6.html〕。ポーランド南東部に居住していた約20万人の罪のない民間人が、ポーランド西部や北部の旧ドイツ東部領土への移住を強制された〔 The Euromosaic study: Ukrainian in Poland . European Commission, October 2006.〕。作戦名は、ポーランドの南西部から北部へと流れるヴィスワ川から採られた。1989年の東欧革命を経て東ヨーロッパにおける共産主義政権が崩壊すると、ポーランドやウクライナの政治家や歴史家から、この作戦を糾弾する声が上がり始めた。西側のメディアのみならず〔''To Resolve the Ukrainian Question Once and for All: The Ethnic Cleansing of Ukrainians in Poland, 1943-1947.'' Timothy Snyder, Journal of Cold War Studies, Spring 1999.〕〔Bohdan, Kordan. Autumn 1997. "Making Borders Stick: Population Transfer and Resettlement in the Trans- Curzon Territories, 1944–1949". "International Migration Review" Vol. 31, No. 3., pp. 704-720. 〕、ウクライナのメディアなども、この作戦を民族浄化と表現している。 == 背景 ==
この作戦の目的として表明されていたのは、1944年以来ポーランド南東部で、共産主義政権側のポーランド人民軍部隊を攻撃し、ポーランド人民間人を殺害していた、ウクライナ蜂起軍(UPA)の鎮圧であった〔。ヴィスワ作戦の直接の契機となったのは、1947年3月28日に、共産主義政権側の将軍カロル・スヴェルチェフスキが、UPAの組織が仕掛けたとされる待ち伏せに遭って殺害された事件であった〔〕。事件のおよそ12時間後に、共産主義政権当局は、ポーランド南東部から全てのウクライナ人とレムコ人を強制移住させることを公式に決定した。しかし、現在では、遅くとも1947年1月にはヴィスワ作戦の準備が始められていたことが明らかになっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィスワ作戦」の詳細全文を読む
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