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ヴィマ・タクト(Vima Takto〔ヴィマ・タクト(Vima takto)の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない。〕、生没年不詳)は、クシャーナ朝の第2代君主。クジュラ・カドフィセスの子。ヴィマ・タクトゥ(Vima Taktu)とも表記される。また、『後漢書』にある閻膏珍(えんこうちん)〔子のヴィマ・カドフィセス説や、兄弟のサダシュカナ(Sadashkana)説がある。〕が彼にあたるとされる。 == 生涯 == クジュラ・カドフィセスの子として生まれる。 1世紀の半ば、父のクジュラ・カドフィセスが死去すると、ヴィマ・タクトはその後を継いで王となった。ヴィマ・タクトはインドに侵攻して北西インドを占領、その統治のために一人の総督(クシャトラパ)を置いて北西インドを監領させた。 84年(建初9年)、後漢の西域長史である班超が、漢に叛いた疏勒王の忠を攻撃した際、康居軍が疏勒王を救うべくやってきたため、班超は疏勒王のいる烏即城を降せずにいた。その頃クシャーナ朝〔原文では「月氏」。中国史書ではクシャーナ朝のことを大月氏の延長として「大月氏」・「月氏」と呼び続けた。〕では新たに康居国と婚姻を結び、同盟が成立していた。班超はそこに目をつけ、クシャーナ王に多くの祝い品を贈って康居軍の撤退を促した。これによって康居軍は疏勒国から撤退し、班超は烏即城を落とすことができた。 87年(章和元年)、クシャーナ朝は後漢に遣使を送って扶拔・師子を献上した。この時、クシャーナ朝の使者は漢の公主を求めたが、班超に拒否され、追い返された。 90年(永元2年)5月、求婚を断られたためかクシャーナ王は副王の謝〔子のヴィマ・カドフィセスか、兄弟のサダシュカナか、もしくは別の人物か。〕を派遣して班超を攻撃させたが〔この時のクシャーナ軍は総勢7万で、亀茲国にまで侵攻してきた。〕、班超に撃退された。これ以降、クシャーナ朝は後漢に毎年貢献するようになる。 ヴィマ・タクトの死後、子のヴィマ・カドフィセスが後を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィマ・タクト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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