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ウィレム=アレクサンダー・クラウス・ヘオルフ・フェルディナント・ファン・オラニエ=ナッサウ(, 1967年4月27日 - )は、オランダ国王である。ドイツの貴族のひとつアムスベルク家の家長でもある。 == 経歴 == オランダのベアトリクス女王の第一子としてユトレヒトで生まれた。オランダ王室で直系男子の誕生はアレクサンダー王子以来116年ぶりであったが、翌1968年にヨハン・フリーゾ王子(2004年、結婚のため王位継承権放棄)、1969年にコンスタンティン王子が続いて生まれた。 ハーグでプロテスタント系の小学校に通い、様々な階層・人種の子供たちと共に学んだ。その後、ウェールズのアトランティック・カレッジを卒業。ライデン大学で史学の学位を取得した。 王妃となるアルゼンチン出身のマクシマ・ソレギエタは、その父ホルヘがアルゼンチンの軍事政権の高官であったため、王太子との結婚には賛否両論があったが、軍事政権の反対派への流血の弾圧にホルヘが関与していないことがあきらかになり、2002年に結婚にこぎつけた。 イギリス王ジョージ2世の娘であったオラニエ公妃アンネの子孫であるため、英国王位継承権を持っていた。しかし、1701年の王位継承法ではカトリック教徒と結婚すると継承権を失うことが明記されていることから、カトリック教徒であるマクシマとの結婚で英国王位継承権を失った。 2003年に長女のカタリナ=アマリア王女(現オラニエ女公)が生まれ、さらに2005年にはアレクシア王女、2007年にアリアーネ王女が生まれている。 1998年から2013年まで国際オリンピック委員会委員を務めた〔IOC委員、103人に (2013年9月3日)朝日新聞デジタル、2013年9月3日閲覧。〕。 母のベアトリクスが2013年4月30日をもって退位し、同日即位式が挙行された〔オランダで国王即位式 ベアトリックス女王の退位受け (2013年4月30日)、Cnn.co.jp、2013年4月30日閲覧。〕。即位に伴い、オランダでの国王の誕生日を祝う祝日「女王の日」は「王の日」に名称が変わり、祖母ユリアナの誕生日である4月30日からウィレム=アレクサンダーの誕生日である4月27日に変更となった〔「女王の日」は「王の日」になります! 、オランダ政府観光局(日本語)、2013年5月5日閲覧。〕。 2014年10月28日から10月31日まで日本を国賓訪問した。即位後、欧州域外の国家を公式訪問するのはこれが初めてであった。王太子時代の1988年以降、通算で15回以上も来日している〔[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM04H09_U4A001C1NNE000/ オランダ国王、御嶽山噴火の被害者に哀悼(2014年10月4日)日本経済新聞、2014年11月1日閲覧。〕。2014年10月29日に催された宮中晩餐会では、「私たちは第二次大戦中におけるオランダの市民と兵士の経験を忘れませんし、忘れることはできません」「互いの苦しみを認め合うことが両国の和解の基礎となるでしょう。そして両国はそれに積極的に取り組み新たな信頼を築いてきたのです」とスピーチし、日本が自らの戦争犯罪を直視することが日蘭両国の友好の基礎になると訴えた〔[http://www.koninklijkhuis.nl/globale-paginas/taalrubrieken/english/speeches/speeches-archive/2014/oktober/speech-by-his-majesty-the-king-at-the-state-banquet-on-the-occasion-of-the-state-visit-to-their-majesties-the-emperor-and-empress-of-japan-tokyo/ Speech by His Majesty the King at the state banquet on the occasion of the State Visit to Their Majesties the Emperor and Empress of Japan, Tokyo] オランダ王室公式ウェブサイト、2015年2月26日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Willem-Alexander of the Netherlands 」があります。 スポンサード リンク
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