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ヴィレル・ボカージュの戦い()は、第二次世界大戦中の1944年6月13日、フランスのカーン南方の村、ヴィレル・ボカージュで行われたイギリス軍とドイツ軍の戦闘。イギリス陸軍第7機甲師団の先鋒とドイツ軍SS第101重戦車大隊および装甲教導師団が衝突し、ドイツ軍が勝利した。SS第101重戦車大隊第2中隊長ミハエル・ヴィットマンの活躍は特に名高い。 == 背景 == 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が発動された。フランスに上陸を果たした連合軍は、順次内陸部への侵攻を開始。連合軍の作戦計画では、早期に確保すべき重要拠点がいくつかあり、カーンはその一つであった。しかしながら、カーン前面ではドイツ軍の装甲教導師団らが強固な戦線を形成しており、正面からの攻撃は多大な損害が予想された。この方面を担当するイギリス軍第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリーは、北アフリカ戦線で活躍し、「デザート・ラッツ(砂漠の鼠)」と称された精鋭の第7機甲師団に装甲教導師団の側面を迂回させ、カーン市を攻撃することを狙った。この作戦はパーチ作戦と命名された。 D-デイの3ヶ月前、ベルギーで第1SS装甲師団の第13戦車中隊はSS第101重戦車大隊に合流した。この大隊はティーガーI戦車で構成され、その打撃力で「火消し」としての役割を期待されていた。大隊長はハインツ・フォン・ヴェステルンハーゲンSS少佐。彼の麾下には、東部戦線で戦車100輌を撃破したミハエル・ヴィットマンSS中尉を始めとして、バルタザール・ヴォル、ヘルムート・ヴェンドルフ、カール・メビウス、ユルゲン・ブラントら戦車エースが多数配属されていた。 D-デイの時点で、SS第101重戦車大隊はフランス北部のピカルディ近郊に駐屯しており、迎撃のためにノルマンディーへ向かうよう命令を受けた。制空権が連合軍に握られているため輸送列車が使用できず、自力走行でノルマンディーへ向かうことを余儀なくされた。目立たぬように中隊ごとに分進したが、連合軍の航空攻撃によって少なからぬ車両を喪失した。6月12日にはヴィレル・ボカージュの北東に第2中隊が到着、第1中隊はさらに北側に位置していた。 6月13日午前8時、N175街道を進軍していた第7機甲師団の先鋒(旅団規模部隊)が、途上のヴィレル・ボカージュを占領、一時停止して休息に入った。もっとも近くにいたSS第101重戦車大隊第2中隊は、偵察によってこれを察知していた。ただし、おそらくこの時点では、中隊長ヴィットマンはまだ敵が大部隊と知らず、小規模な先行部隊と考えていたと思われる。そのため、彼は偵察(一種の将校斥候)を兼ねて、単独で出撃することとした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィレル・ボカージュの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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