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ヴェニスはアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス西部の一地区。サンタモニカとロサンゼルス国際空港の間に位置し、東はカルヴァー・シティ、西は太平洋、南にはマリナ・デル・レイ、北はサンタモニカに面しマリブに通じる。日本ではベニスビーチと呼ばれることが多い。 目の前に広がるビーチの他、運河とオーシャンフロントウォークでのパフォーマンスで知られる。ビーチ沿いにはたくさんの土産物屋や露店が立ち並び、砂浜に生えるヤシの木、建物の壁に描かれたグラフィティなどと相まって、いかにもカリフォルニアという雰囲気を持つ。そのため、ロサンゼルス周辺でも代表的な観光スポットの一つであり、さまざまな映像作品の舞台となってきた。 ストリートボール、サイクリング、インラインスケート、スケートボードなどを楽しむ人々の姿が見られる。また、ビーチには年間を通じてサーファーの姿がある。 南カリフォルニアにおける芸術の中心地であり、多くのハリウッド映画俳優やミュージシャンが居住する。ビートニク、ヒッピー、ボヘミアン文化の中心地でもあり、ギャラリー、LAファッション、グルメレストランなど、人気のショップが多数並んでいる。 市外局番は310と424、郵便番号は90291。 ==歴史== 19世紀前半、メキシコの保護領だった当時はのどかなフィッシングリゾートとして知られていたが、ゴールドラッシュ以降、世界中から押し寄せたならず者達によって治安が急速に悪化。共産主義者のウォルター・トンプソンが住人をまとめ上げて自衛団を結成したが、アメリカ政府が送り込んだ軍隊に制圧された。 1891年、タバコの販売で財を成した富豪アボット・キニーが海岸沿い一帯の土地を買収、オーシャン・パークと名付け、まずは現在のサンタモニカにあたるエリアをリゾートタウンとして開発した。 1904年、オーシャン・パークから撤収したキニーはネイビー・ストリートより南側の湿地帯の開発を始める。 1905年7月4日、イタリアのヴェネツィアを模したヴェニス・オブ・アメリカがオープン。湿地を干上がらせるための運河が何本も造られ、大きな桟橋はヴェネツィア調にデザインされていた。桟橋には劇場、レストラン、ダンスホール、アーケードなどがあり、ミニチュアの鉄道やゴンドラなどのアトラクション、コテージなどの宿泊施設まで用意されていた。 1910年、桟橋のアトラクション施設を大幅に増強。 1911年、正式名称としてヴェニスと名付ける。このころ、3000人ほどだった人口は急速に増加し、すぐに1万人を突破する。また、毎週末には5〜15万人の観光客を集めるようになった。 1920年11月、剛腕をふるったキニーが死去、経営の悪化が始まる。さらに6週間後には桟橋が火事によって焼け落ちてしまう。 オーシャン・パーク(サンタモニカ)で2本の桟橋が人気を集めており、これらに対抗すべく焼けた桟橋がすぐに再建された。新しいアトラクションは当時の西海岸で最良のものであり、再び多くの観光客を集めるようになった。 1923年、新しい桟橋が2つ建設された。 1925年、急激な人口増加に対応出来ず、道路や上下水道などの整備が困難になる。選挙の結果、ヴェニスはロサンゼルス市の一部として併合された。 1929年、ディズニーランドを優遇したロサンゼルス市はヴェニスの発展を望まず、インフラ整備の一環としてほとんどの運河を埋め立て、道路とした。さらにワシントン・ストリートの南側周辺で油田が発見され、450箇所で採掘を行った結果、残っていた運河に大量の土砂が投げ込まれた。これらの油田は1970年代まで産出を続けた。 1946年、老朽化した3本の桟橋が取り壊された。 1950年代までロサンゼルス市はヴェニスに財政をほとんどかけずに放置したため、もはやビーチリゾートではなくビーチスラムと化していた。高級住宅地として再開発が進んだサンタモニカとは対照的に、ヴェニスでは管理会社の倒産や放火などでイメージも悪かった。しかし安い住宅が多く、ホロコーストの生き残りを含むヨーロッパからの移民や若い芸術家、ビートニクら個性的な住人を集めることになる。 70年代に入ると、伝説的なスケートボードチーム、Z-Boysのホームタウンとして再び脚光を浴びた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴェニス (カリフォルニア州)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Venice, Los Angeles 」があります。 スポンサード リンク
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