|
ヴェネツィアンレース(、ヴィニーシャン・レース)は15~16世紀のイタリア・ヴェネツィアを発祥として、ヨーロッパ各地に輸出されたレースの総称である。ヴェネツィアはニードルレース発祥の地であり、ボビンレースの発展にも歴史的な役割を果たしてきた。ヴェネツィア商人の交易が、ヨーロッパ全土にレース文化を広めた。 ==歴史== 16世紀のヴェネツィアでは、布の刺繍からレティセラ(ポワン・クペ、カットワーク、刺繍レース)やニードルレースが、飾り紐からパスマン (passement、ブレードを組んで作ったレース) が生まれた。当初のヴェネツィアンレースは、これらレティセラやパスマンであり、幾何学模様を特徴としていた。 レティセラは、1540年代までにヴェネツィアの刺繍師たちにより発明された。レティセラはニードルレースではなく刺繍レースであった。高貴な人々の身を飾った最初のレースであり、ヘンリー8世 (イングランド王) の6番目の妃、キャサリン・パーの1545年の肖像画に描かれている。これらのレースはヴェネツィア商人により各地に輸出された。16世紀半ばには、多くのレースカタログがヴェネツィアで発行され、商人たちの手によりヨーロッパ各国に伝わり、各地の出版者により重版されていった。ヴェネツィアで流行したものは直ちにアントウェルペン、パリ、ロンドンに伝わっていった。 イタリア生まれの二人のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスとマリー・ド・メディシスは、フランスにレース文化をもたらした。ヴェネツィア生まれのレースデザイン職人ヴィンチオッロもパリに住み着き、1587年デザインカタログを発表した。 17世紀になり、初のニードルレースである、プント・イン・アリア (空中ステッチ) がヴェネツィアのレース女工の手により発明された 。1620年頃から1650年頃にかけて作られ、最高クラスの技術と美しさをもっていたが、このレースがトップ・ファッションとして王族達の身を飾ることはなかった。プント・イン・アリアの発展により、レースは幾何学模様から脱していった。 1640年頃、レースカタログは発行されなくなり、ヴェネツィアンレースは最盛期をむかえた。全ヨーロッパの高貴な人々にとって、ヴェネツィアンレースは、完成・完璧と同義とされた。ヴェネツィアンレースで最も成功したのは、 であり、フランスを始め多くのレース産地で模倣された。1680年頃に考案されたポワン・ド・ネージュ (point de neige) がヴェネツィアで考案された最後のニードルレースである (ボビンレースのポワン・ド・ネージュとは異なる) 。ボビンレースでも、ニードルレースの手法が応用され、1625~1650年のヴェネツィアでは、ニードルレースと見まごうばかりの美しいボビンレースが作成された。 18世紀になると、ヴェネツィアのレースはロザリーヌ (rosaline) とよばれ、けばけばしい飾りをつけた集合体となった。かわりに他の地方の軽やかなレースがもてはやされるようになった。 一方、ボビンレースでは模倣ロザリーヌが功緻な技法により成功した。 19世紀になり、レース産業は衰退した。19世紀後半、イタリア王妃マルゲリータの後援の下に、ブラーノ (ヴェネツィア湾内の島) のレース生産が復活した。ブラーノレースはレティセラやニードルレースを摸倣し、もてはやされた。1873年ブラーノのレース教習所がアンドリアーナ・マルチェッロ伯爵夫人の指導により開設された。ボビンレースでは、ヴェネツィア地方のキオッジアでブラーノのニードルレースに似たレースを作成した。 20世紀以降、イタリアのレース産地は、ボローニャ、ミラノ、ジェノバに集約された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴェネツィアンレース」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|