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ヴェネツィア共和国の歴史( - きょうわこくのれきし)では、ヴェネツィア共和国の誕生から滅亡までを解説する。東ローマ帝国の自治領として誕生した同国は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。しかし、大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退していき、最終的にはナポレオン・ボナパルトに降伏して滅亡した。 ==最初期== 北イタリアでは、東ローマ帝国の影響力が減退するにつれてランゴバルド人やフン族その他の民族による侵略が行われるようになった。ヴェネツィアの街の起源は、これらの侵略者に対抗するための、沿岸湖沼地帯における相互扶助組織である。726年には、これらの湖沼地帯において最初の指導者としてオルソ・イパートが選ばれた。彼は、東ローマ帝国により承認され、ヒパトゥス(ギリシャ語で執政官を意味する)とドゥクス(公)の称号を与えられた。歴史的には、彼が最初のヴェネツィアのドージェであるとされる。伝承では、697年にパオルッチョ・アナフェストがドージェになったといわれる。この伝承は11世紀の助祭ディーコンによる年代記が初出であり、疑義があるが、慣例的に697年がヴェネツィア共和国の成立年とされる。いずれにせよ、最初のドージェはエラクレーアで誕生した。 オルソ・イパートの後継者であるデオダート・イパートは、740年代に本拠地をエラクレーアからマラモッコに移した。彼はオルソ・イパートの息子であり、世襲制を確立させようと試みた。こうした試みは初期のヴェネツィアにおいてしばしば為されたが、結局、失敗に終わった。デオダート・イパートの治世に、ヴェネツィアは北イタリアに残る唯一の東ローマ帝国領となり、さらにフランク王国の強大化はヴェネツィア内の勢力図にも影響を与え始めた。東ローマ帝国との関係を維持しようとする勢力と、東ローマ帝国からの事実上の独立を目指す勢力に加えて、フランク王国に近付こうとする勢力が発生したのである。この親フランク勢力は、主にカトリック教会の僧侶の支持を得て、フランク人であるカロリング朝の王ピピン3世を戴くことによりランゴバルド人からの守護を得ようとした。少数派としては、ランゴバルド人の王国と手を結び、大国から距離をおき、近隣国同士の平和を重視する勢力も存在した。 755年にガッラ・ガウロはデオダート・イパートを暗殺し、ドージェの位に就いた。しかし彼は翌年に死亡し、ドメニコ・モネガリオが後を襲った。彼の治世に、ヴェネツィアは漁村から港町へ、商人の街へと変貌を遂げた。造船技術も格段に進歩し、ヴェネツィアによるアドリア海支配の礎が築かれた。また、古代ローマを模して護民官が制定された。毎年二人の護民官が選出され、ドージェの執政を監視し、権力の濫用を防いだのである。ドメニコ・モネガリオは親ランゴバルド派であったが、後継のマウリツィオ・ガルバイオは親東ローマ帝国のエラクレーア人であった。彼は764年から787年まで在位し、ヴェネツィアの国力を充実させると共に、世襲制の確立を試みた。また、ヴェネツィアの街をリアルトへ拡張した。マウリツィオ・ガルバイオの死後、その息子のジョヴァンニ・ガルバイオがドージェとなった。彼は奴隷貿易を巡ってカール大帝と争い、ヴェネツィア教会との軋轢を招いた。 803年のパクス・ニケフォーリにより、フランク王国のカール大帝と東ローマ帝国のニケフォロス1世は、ヴェネツィアが名目上は東ローマ帝国領でありつつも事実上は独立していることを確認した。804年にオベレリオ・アンテノレオがドージェに就くことで、2代続いていた世襲の流れは潰えた。彼はカール大帝の神聖ローマ帝国に従属することを選択した。しかしピピンによる侵攻を招いたため、オベレリオ・アンテノレオは民衆の怒りを買い、ヴェネツィアがピピンの軍勢に包囲される中で家族と共に逃亡せざるを得なかった。ヴェネツィアは最後まで降伏せず、810年、ついにピピン軍を退けた。これ以後、ヴェネツィアは滅亡まで独立を保った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴェネツィア共和国の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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