|
ベルデハ()は1938年から1954年までスペインで開発された軽戦車シリーズ。スペイン軍が利用していたドイツ製のI号戦車やソビエト製のT-26との置換が試みられた。 この計画は少佐が率いて、75mm砲を積んだ自走砲を含む4台の試作車両の開発につながった。改良型の軽戦車として設計され、戦車自身の防御と反して乗員の生存性を考慮に入れた最初の開発プログラムの一つである〔de Mazararrasa, pp. 11–12〕。この戦車はスペイン内戦中に使われたI号戦車やT-26の影響を受けており、これらの戦車との置換が計画されていた。ベルデハは長いテスト期間を経てT-26よりも優れた戦車と考えられたが、量産には至らなかった〔Armas, p. 28〕。 1938年から1942年にかけてベルデハ1、ベルデハ2を含む三種の軽戦車が製造され、第二次世界大戦終結後は開発が停止された。ベルデハ2に新しいエンジンをあわせる試みやベルデハ1を自走砲用の部品に転用する試みもあったが、計画は最終的にアメリカのM47パットンの導入に傾き非公式に中止となった〔Manrique & Molina, p. 31〕。75mm自走流弾砲プロトタイプ〔Ministerio de Defensa, ''Materiales'', retrieved on 2008-05-27〕とベルデハ2は1990年代初期以降展示されている〔Núñez, p. 85〕。 == 開発 == スペインは1919年半ばに最初となるフランスのルノーFT-17を試験目的で導入し、後の1921年12月18日に10台以上の戦車を受け取った〔García 2004, pp. 5–9〕。第3次リーフ戦争では初の戦車を含む陸海共同上陸作戦などこれらの戦車が利用され〔García 2000, pp. 49–54〕、その後スペインの初の国産戦車計画である(Trubia A4)に向けた貴重な経験となった。トルビア計画ではルノーFT-17を基礎として、4つの試作車両が製作されたが、国民政府が興味を失ったことで最終的に開発は終了した〔García 2008, pp. 54–56〕。これらの試作車両は後続の国産戦車計画「Trubia-Naval」の試みに反映されたが〔García 2008, p.64〕、この設計も試作車両以上の状態にはならなかった〔Manrique & Molina, p.9〕。また、国産戦車計画の試みが失敗し、イタリアのFIAT3000など外国製の戦車を調達する試みも頓挫し〔de Mazararrasa 1998, pp. 74–76〕、スペイン内戦の開始時、スペイン国内で稼動可能な戦車はルノーFT-17が10台のみであった〔García 2004, pp. 6–7. On 24 August 1925, the Spanish government successfully petitioned to procure six more FT-17s, to replace FT-17s operating in Morocco since 1922=; García 2004, pp.19–21. At the start of the war there 15 FT-17s, but only 10 in working condition.〕。 戦車が欠乏していたために、人民戦線にはソビエト連邦が、国民戦線にはナチス・ドイツとイタリアが軽戦車を提供した。1936年から1939年にかけて、国民戦線側に向けてドイツは112両のI号戦車を提供し〔Manrique & Molina 2006, p.311〕、イタリアは115両のL3/35を提供した〔Manrique & Molina 2006, p.314〕。一方、ソ連は人民戦線側に281両のT-26および50両のBT-5を提供した〔Manrique & Molina 2006, pp.320–321〕。国民戦線はこれらの戦車に乗せられた軽機銃は150m以上離れた場合T-26の装甲を破ることができないことをすぐに発見し、人民戦線側の戦車は常にI号戦車やL3/35を1000mの距離から撃破可能であった〔Candil, p.36〕。T-26を鹵獲し、国民戦線の機甲部隊に組み込むために、ドイツの少佐ヴィルヘルム・フォン・トーマは戦車を捕獲したスペイン兵に500ペセタの懸賞をつけた〔Perrett, p.35〕。また、I号戦車A型の砲を速度が高く反動の少ないイタリアのブレダM35 20mm機関砲に換装する計画が始められた。4輌がこの形式に正常に変更されたが、この変更はそれ以上広がらなかった〔Molina 2005, pp. 47–50〕。その代わりに国民戦線はT-26鹵獲を進めるようになり始め、1937年には国民戦線にT-26の部隊が編成された〔Molina 2007, p. 16〕。 1937年9月6日、国民戦線の戦車大隊(Batallón de Carros de Combate)のメンテナンス部隊を指揮する部隊長であったフェリックス・ベルデハ大尉は個人的に新型軽戦車を開発し始めた。I号戦車やT-26と接したことで、彼は現在の形式の戦車の戦闘能力とメンテナンス問題の観点からの欠点を経験していた。ベルデハは必要とされる将来型戦車の構想を立て、T-26に嵌合できる45mm砲、2基の同軸機関銃、低姿勢、装甲の全集が15mmより厚いこと、砲塔板が最低でも30mmであること、路上速度70km/h、戦闘範囲が200km、有能なサスペンションと新しい履帯などを要件とした。後者の要件は既存の軽戦車で経験に基づいており、戦闘中に頻繁に履帯を失ったことに起因している。これらの要件と解決策は戦車グループ(''Agrupación de Carros de Combate'')部隊長のディアス・デ・ラ・ラストラ大佐に1938年10月に提示され、計画は承認されたものの、資金と資材が足りていなかったため最初の試験車両の製造には既存戦車のスクラップを使う必要があった〔de Mazararrasa, pp.11–14〕。フォン・トーマからの批判など初期には抵抗もあったが計画は継続され、ベルデハは試験車両製作を継続するためにサラゴサの倉庫を与えられた〔de Mazararrasa, pp. 14–16〕。 試験車両はスペアパーツと壊れた軽戦車から集められた部品から製造され、長方形の砲塔と16mmの基本装甲を特色としていた。シャーシは4部分に分割されており、運転席は前方の左方に存在し、その隣の前方の右半分がエンジン、ギアボックス、クラッチ、終駆動機などで占められており、後方は大部分が砲塔バスケット、46-45mm砲弾、2個の60リットル燃料タンクなどで塞がれていた〔de Mazararrasa, p.20〕。砲塔スペースは戦車指揮官、砲手、装填手が乗り込み、1932年式45mm対戦車砲とMG13機関銃を使用した。主砲はもともと1932年3月にソ連から19-K 45mm対戦車砲として導入されたもので、古い対戦車砲よりも射撃数が多く、弾薬が重いのが特徴であった。なお、1934年以降に組み立てられた新しいT-26sでは新しい大砲が取り付けられていた〔Baryatinskiy, p.28〕。砲とは別に戦車指揮官用の1932年式パノラマ潜望鏡がT-26から転用された。 エンジンは一般自動車用のフォードのフラットヘッドV8エンジン モデル48を使用しており、3622ccの排気量で2000rpmで85馬力の出力であった。エンジンは新しいラジエーターと排気システムと共に組み込まれていた。ベルデハの試作型にはI号戦車のAphon PG-31ギアボックスが使われており、過度の回転下で運用されたがトルクは低く、40度より急な斜面では運用が難しかった。恐らく最も珍しい特徴はサスペンションと履帯である。戦車の履帯が転輪から滑り落ちるのを防ぐことを目的に、転輪のための中央の溝を作るため2個の履板が合わせられていた〔de Mazarrasa, pp. 20–25〕。重量は合計5t以下で、最大速度は70km/h、戦闘半径は120kmだった〔de Mazarrasa, p. 44.〕。1939年の1月10日から1月20日の間のテストの成功の後、ベルデハは最終モデルの構築を命じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルデハ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Verdeja 」があります。 スポンサード リンク
|