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ヴェルナー・ショーレム : ウィキペディア日本語版
ヴェルナー・ショーレム
ヴェルナー・ショーレム(Werner Scholem、1895年12月29日 - 1940年7月17日)はドイツ政治家1924年から1928年まで国会議員ドイツ共産党所属)を務めた。
== 来歴 ==
印刷経営者の子としてベルリンに生まれる。歴史家ゲルショム・ショーレムは実弟。幼少時は弟のゲルハルト(後のゲルショム)共々、シオニスト青年組織であるユング・ユダの一員であった。しかし、第一次世界大戦の勃発直前、社会主義系の労働者青年組織へ加入。両者はシオニズムと社会主義との対立点や共通性について、激論を戦わせることとなる(ゲルショムは激烈な反共派であった)〔see Mirjam Triendl-Zadoff: ''Unter Brüdern – Gershom und Werner Scholem. Von den Utopien der Jugend zum jüdischen Alltag zwischen den Kriegen.'' In: ''Münchner Beiträge zur jüdischen Geschichte und Kultur.'' Band 1, Heft 2, 2007, p. 56–66 and also Ralf Hoffrogge: ''Utopien am Abgrund. Der Briefwechsel Werner Scholem – Gershom Scholem in den Jahren 1914-1919''. In: ''Schreiben im Krieg – Schreiben vom Krieg. Feldpost im Zeitalter der Weltkriege'', Klartext-Verlag, Essen 2011, p. 429-440.〕。
16歳からジャーナリズムにも関わり、1917年独立社会民主党(USPD)に参加、皇帝侮辱反戦運動の廉で拘留を余儀無くされる。1919年以降は編集者として糊口を凌いだ。
1920年ドイツ共産党に加入、翌年にはプロイセン議会議員選挙で初当選を果たす。同年党機関紙赤旗」の編集を任される。その後党ベルリン支部に勤務し、1924年には全国組織の指導者に就き、共産党政治局の一員となった。
1924年から1928年まで国会議員を務めるが、グリゴリー・ジノヴィエフコミンテルン議長と関わりが深い、所謂フィッシャーマズロウ派に属した。なお、同派は1923年に党内右派が当時の議長により除名処分となった後、新たな極左政党を結成することとなる。
1925年8月の新党結成による党員資格停止を経て、ソビエト連邦における統一反対派への弾圧に共同で抗議したため、党から除名処分が下る。国会では左翼共産主義系の会派に属し、1928年4月にはレーニン同盟を設立。同盟はドイツ国内屈指の共産主義分派の1つにまで上り詰めた。しかしながら、年内に同盟を離れ、トロツキズム左翼反対派(LO)に共感を抱きながらも、無所属を貫くこととなる。機関紙「永久革命」に寄稿すること度々であった。
ユダヤ人かつ共産主義者であったため、1933年ナチス政権成立直後逮捕1938年ブーヘンヴァルト強制収容所へ追放されるまで、予防拘禁を余儀無くされた。1940年親衛隊がショーレムおよびユダヤ人元国会議員のエルンスト・ハイルマン処刑。ハイルマンは注射により、ショーレムは親衛隊上級曹長撃により落命した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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