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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応3年(1867年) ‐ 慶応4年(1868年))。江戸幕府最後の将軍であり、歴史上征夷大将軍に任じられた最後の人物。 御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。 == 生涯 == === 幼年期 === 天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた〔男系の血筋として慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男である松平頼侯(よりとし)の男系子孫である。〕。 母は正室・吉子女王〔第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。〕。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)〔「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。また、御三家・御三卿の当主と世子以外は松平姓を称えることになっていた。〕。 慶喜は、2代目藩主・光圀に感化され、嫡子以外の男子は国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川慶喜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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