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一目上がり(一目上り、ひとめあがり)は古典落語の演目のひとつで、「七福神(しちふくじん)」「軸ほめ(じくほめ)」とも称する〔コトバンク「一目上り」 (デジタル大辞泉プラス)〕。無教養な男の厚顔ぶりを洒落のめす噺で、落ちはトントン落ち〔〔落語あらすじ事典 千字寄席「一目上がり」 〕〔トントン落ちとは、トントンと調子よく進んで落ちるオチのことである。〕。主な登場人物は、市井に住む町人(八五郎または熊五郎)と隠居〔。前座噺(前座の口慣らしの噺)とされるが、真打も好んで手がけることの多い演目である〔。 == あらすじ == 長屋に住む職人、珍しく隠居宅の床の間の掛軸に目をやった〔京須(2005)pp.156-157〕。『雪折笹』の図に「しなわるるだけはこたえよ 雪の笹」という字句が添えてある。これには、雪の重みにしなって耐えている笹竹も雪が融ければ元の通りに立ち直るように、人間も苦難に遭遇したときこそ辛抱が大切であるという教訓がこめられている〔。隠居いわく「これは画に添えた賛(サン)というもの。結構な賛でございますくらいのことを言ってみな。ふだんお前を軽んじている連中も見直すこと請け合いだ」〔〔落語の舞台を歩く「落語「一目上がり」の舞台を歩く」 〕。お調子者の職人は「よし、やってみよう」というので家主のところへ行く〔。 大家の家の床の間にある掛け物には絵がなく、そこには「近江(きんこう)の鷺は見がたし、遠樹(えんじゅ)の鴉見やすし」の字が書かれてある〔。雪の中、近くにあってもシラサギの姿は見つけにくいものだが、遠くにいるカラスは小さくともすぐに目につく。それと同じで、善行はなかなか認められないものだが、悪事はとても目立つものだ、だから悪事はできないという意味である〔。職人「結構なサンでございますな」、家主「いや、これは根岸の蓮斉先生の詩(シ)だ」ということで失敗。「今度は『シ』と言おう」というので医者のところへ行く〔〔。 医者の掛軸には大きな絵が描いてあって、「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども水も濁さず影も止めず」の字句が付されている〔。職人「結構なシでございますな」、医者「いや、これは一休禅師の悟(ゴ)だ」ということで、またも失敗〔〔。「待てよ。サン、シ、ゴと来て失敗つづき。よし今度は先回りしてやれ」と職人は友人宅へ行く〔〔。 友人宅には、腹の大きな坊さんや頭の長い爺さんなど大勢の人物を描いた絵画があって、「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」というめでたい歌が添えられており、しかも回文になっている〔〔〔「長き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の佳きかな」。 長久の世に長い眠りから覚めてみな母の胎内から生まれ出て、波乗り船の人生航路、ゆくゆくは極楽浄土の美しい音に包まれ安楽でありたい、の意。〕。感心しながらも職人「結構なロクですなぁ!」、友人「いいや、七福神の宝船だ」〔。 どうもうまくいかない。もう一軒。「古池や 蛙とびこむ 水の音」。職人「結構なハチで」、相手「芭蕉の句だ」〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一目上がり」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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