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常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。これは文化摩擦などとして表面化することもある。 == 概念史 == 西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希: 、羅:Sensus Communis )の概念に由来する。 アリストテレスは五感に共通して付帯する感覚があり、それぞれの感覚を同一の対象の感覚として統合するものとして共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがこの共通感覚に由来すると考えられた。 ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。特に、それを受けて、キケロに代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。 13世紀のトマス・アクィナスはアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。 17世紀のヴィーコやシャフツベリ伯によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。 イギリス経験論、及びスコットランド常識学派において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トーマス・リード(Thomas Reid)はその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。彼らはデイヴィッド・ヒュームのように疑わなくても、「2+2は4だろ、だれも証明したわけではないが、みなそれが正しいと思う。それがコモン・センス。美しいものを見て美しいと思うのも、善悪を判断できるのもコモン・センス・それで判断すればいい」と主張した〔なだいなだ『常識哲学』(筑摩書房 2014年)。〕。 カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚 ( Gemeinsinn )」という意味合いで規定され、感性的(美的)なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。 歴史的には、トマス・ペインのパンフレットコモン・センスが共和主義的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。 「コモン・センス」を訳したのを「識」を使うことなどから、なだは井上円了あたりの仏教徒だろうと考えている。 小林秀雄は『常識について』を書いているが、前田陽一が戒めていた「ボン・サンス」(Bon sens「良識」で「賢い判断」位の意味)と「コモン・センス」(小林がフランス語で「サン・コマン」としているのは「サンス・コマン」(Sens commun)の間違い)を混同している〔なだいなだ『常識哲学』(筑摩書房 2014年)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常識」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Common sense 」があります。 スポンサード リンク
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