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一色義秀 : ウィキペディア日本語版
一色義秀[いっしき よしひで]

一色 義秀(いっしき よしひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての守護大名
== 生涯 ==
一色義直の次男として誕生。初め僧籍にあったらしく「周儀侍者」と呼ばれていたが(大徳寺の『蔭凉軒日録』)、文明16年(1484年)の兄・義春の急死により急遽一色氏の家督を継ぐ。若年であったせいか、この時は丹後国守護には父義直が就いている。
文明18年(1486年)8月、父は禁裏の意向により知行地の若狭国小浜を取り上げられ、同地は同国守護武田国信に与えられた。激怒した父は直ちに丹後へ下向、翌長享元年(1487年)の9代将軍足利義尚六角高頼討伐にも参陣しなかった。この時代理として9月25日に上洛・参陣したのが義秀で、上洛を機に「義秀」と名乗ったらしい。同年、丹後守護となる。また、時期は不明だが伊勢半国守護にも補任されている。
明応2年(1493年)、丹後で伊賀次郎左衛門が叛乱を起こし、上洛していた父も急を聞いて丹後に下向、親子で鎮圧に当たったらしい。その後も丹後では国衆の叛乱が相次ぎ、遂に明応7年(1498年)5月29日、義秀は丹後国普甲山で国衆に攻められ自害して果てた。後を継いだ義有は、叔父義遠の子で従兄弟にあたる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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