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一色義道 : ウィキペディア日本語版
一色義道[いっしき よしみち]

一色 義道(いっしき よしみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名丹後国守護加佐郡建部山城主。
== 生涯 ==
一色氏室町幕府四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。
永禄元年(1558年)、父・一色義幸の隠居により家督を継承し、加佐郡の八田守護所及び建部山城に入り、実弟の義清吉原城に配して丹後奥三郡を治めさせ、昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、同じく将軍足利義昭より偏諱を受けその奉公衆として将軍家に近侍させた。
義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭から丹後一国を正式に安堵される。しかし、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちで追われた延暦寺を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将明智光秀長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。
翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主・沼田幸兵衛は織田方に内応したため行き場を失って自害した(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある)。
自害の前に子義定に家督を譲ったとされる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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