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一色重之
一色 重之(いっしき しげゆき)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。通称は右馬三郎。
== 経歴 == 天正8年(1580年)、丹後国宮津城(現・京都府宮津市)の落城前に外祖父である河野通泰(村上通泰)との縁により、子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、伊予国宇摩郡へ来た。一族は当時新居郡の旗頭であった高峠城(高外木城・たかとき)石川通清の食客となり、新居郡萩生村に居住。その後、桑村郡旦ノ上村へ居住。そして、旦ノ上村の青野六太夫只正の娘を重次の嫁に迎え縁者となった。天正18年(1590年)、摂津麻田藩青木一重の代官となっていた重之は、命により古城に居た周敷郡北条村の地頭越智勘左衛門を討って移り住み、そこを「三ツ屋」と称した。 また、文禄2年(1593年)5月13日、重之は代官となっていた次男の重次、嫡男の重直らと共に周敷郡周敷村三谷城主の荒井藤四郎考宣(なりあきら)を討った(豊臣秀吉の朝鮮出兵の軍費のためか、新領主による過酷な年貢の取立てがあったようで、一揆を企てた三谷城の荒井氏を攻め滅ぼした。道前一揆である)。 そして、重之の嫡男である重直が三谷城主となり、重直は周布、重次は三津屋を治めた。その後、一色家は三津屋村・周布村・壬生川村・明理川村の四か村で大庄屋を務めた。明治以後は、一色家から周布村長・壬生川村長・壬生川町長を数多く輩出している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一色重之」の詳細全文を読む
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