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『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)とは、文楽および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦元年(1751年)11月に大坂豊竹座にて初演。並木宗輔の作。三段目の切は特に『熊谷陣屋』(くまがいじんや)と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、「故人」として並木宗輔の名が記されている。 == あらすじ == === 初段 === (堀川御所の段)時に寿永三年の二月半ば、平家は源氏に追い詰められ安徳天皇を戴いて西国へと落ち、京の堀川御所にいる源義経は、鎌倉の兄源頼朝から平家追討の命を受け、日夜その事について評議をしていたが、そんななか平家の平大納言時忠が義経のもとを訪れていた。時忠は一門を裏切り自分の娘卿の君を義経の妻とさせ、安徳天皇のもとにあった三種の神器のうち、内侍所すなわち八咫の鏡と神璽をひそかに奪い取って義経に差し出していた。 そこへさらに藤原俊成の娘、菊の前が訪れる。菊の前によれば、父俊成のもとに或る旅人が訪れ、いま俊成が撰者となって編纂している『千載和歌集』に自分の和歌を入れてほしいと願い出ており、それを記した短冊を持って来たのだという。義経が見ると、「さざなみや しがのみやこは あれにしを むかしながらの やまざくらかな」という和歌。じつはこれは平家の武将平忠度が詠んだ和歌であり、いま源氏と敵対する平家の者が詠んだ歌を、勅撰和歌集に入れてもよいかどうか源氏の義経に伺いに来たのであった。その場にいた時忠は反対するが義経は、ひとまずこの短冊は自分が預かるといって菊の前を帰らせた。 次に義経の家臣である岡部六弥太忠澄と、熊谷次郎直実が義経の前に出た。頼朝より再三平家追討の軍を出立させるよう義経が催促を受けているので、早く出立するようにと二人は進言するが、義経は今むやみに攻めて平家方に残された三種の神器の一つである十握の剣を失うことがあっては一大事であり、それを取り戻す機会を伺っているのだと言い、また六弥太には件の短冊を桜の枝に付けて渡し、これを忠度に届けるよう命じた。いっぽう熊谷には、「此花江南の所無也、一枝折盗の輩に於ては、天永紅葉の例に任せ、一枝を切らば一指を切るべし」という文言の書かれた高札を渡し、須磨に行き陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で以って守れと命じた。両人は時忠とともにそれぞれ短冊と高札を手にして義経の前を下がる。 (北野天神の段)北野天神では今を盛りの桜が咲き誇り、その境内に幕を張り腰元たちを連れて花見をしているのは、義経の妻卿の君であった。じつは卿の君は、義経が忍びでこの北野天神に毎日参詣していることを知り、待ち構えていたのである。はたしてそこへ編笠をかぶり、姿をやつした義経が熊谷の息子小次郎直家を供にしてやってきた。卿の君は二人を幕の内へと招き入れる。 だがその隣の幕には卿の君の父である時忠が、源氏の侍梶原平次景高と平山武者所末重を連れてきていた。時忠には卿の君のほかに玉織姫という娘がいたが、これが平経盛の養女となっていた。時忠はこの玉織姫をいずれ経盛のもとから取り返し、平山武者所に嫁がせる約束をする。また時忠は、義経は自分にとって後まで信用することのできる人物ではない、いずれ卿の君も義経の手から奪って、景高に添わせようという。この密談は、義経たちにも洩れ聞えていた。小次郎は怒りのあまり幕を飛び出し、時忠たちを討とうするが義経に止められる。しかしその間に、やはり話を耳にしていた卿の君が自害してしまったのである。父の悪事を悲しんでのことであった。これには義経や小次郎、腰元たちも嘆き悲しむが、義経は小次郎たちに卿の君の死骸を駕籠に乗せ館へ帰るように命じ、自分はひとり別に帰っていった。 駕籠に小次郎が付き添い一行が館に帰ろうとすると、景高と平山が手下を連れてあらわれ、卿の君を奪おうとする。小次郎が応戦するが最後は多勢に無勢、腰元たちとともに駕籠を残して逃げ去る。だが景高と平山が駕籠の中を改めると卿の君は死んでいるので二人ともびっくりする。そこへ時忠も来てさすがに娘の死を悲しみ、その場で野辺の送りをすることになる。 (経盛館の段)平家が拠点としていた福原の御所も、いまでは一門はそこを立ち退き、残っているのは平経盛とその身内だけであった。経盛は養女の玉織姫を、自分の息子である平敦盛といずれ夫婦にしようと決めていたが、折からの源平の争いでまだそれが叶わなかった。そこに都から時忠の使者大館玄蕃が訪れ、主人時忠の意向により玉織姫を引き渡せという。経盛は姫のためを思って玄蕃に姫を渡そうとするが、玄蕃が時忠が姫を呼び戻すのは平山武者所に嫁がせるためだというと、いきなり姫は玄蕃が指している刀を奪い、玄蕃を斬り殺した。これはと経盛は仰天するが、姫は敦盛のほかに夫はないと心に決めていたのである。経盛の妻で敦盛の生母藤の方はよくやったと姫を誉め、敦盛を呼んで姫と祝言の盃をさせるのだった。だがこのとき経盛は、みなの前で思いもよらぬことを語った。 藤の方はもと後白河院に仕えた女房であったが、経盛の妻となる前すでに懐妊しており、そののち産み落としたのが敦盛であった。つまり敦盛はじつは、後白河院の落胤だったのである。しかし平家の命運は尽き、いずれこのままでは敦盛も一門とともに命を落とすことになるであろう。そうなるまえに藤の方と玉織姫を連れてすぐさまここを立ち退き、都に上って身を隠しいずれ院を頼るようにと経盛は敦盛に言い聞かせる。敦盛はいったんはそれを拒むが、経盛に聞き分けなければこの場で切腹するといわれ、致し方なく承知する。敦盛をはじめとする人々はその用意に奥へと入る。 そこにいまは八島に向けて安徳天皇とともに落ち延びている平宗盛から、経盛に宛てて書状が届く。安徳天皇や建礼門院を守護するための援軍として出立せよとの知らせであった。経盛は敦盛や藤の方に告げる暇もなく、その場を立ち去った。だがそのあとで敦盛は緋縅の鎧兜に身を固め、騎馬で出陣しようとする。藤の方はこれを見て驚くが、敦盛は経盛のいうことを聞くようには見せたものの、やはり平家の一門として討死をする覚悟だったのである。その姿を見た玉織姫は自分もともに連れて行ってと頼み、藤の方も姫を連れて行くよう勧めるので、敦盛は姫を連れて一谷へと向うのであった。 ふたりを見送った藤の方は、声をあげて泣いた。じつは幼いころより舞楽を好み、戦のことなど何一つ知らぬ敦盛。それが戦場に出たならばすぐさま討取られるのは知れたこと、それを送り出し姫まで付き添わせたのは、臆病者のそしりを免れさせ、また敦盛と姫をせめて少しでも、夫婦として一緒にいさせてやりたいと思う心からであった。だがそこへ平山武者所の手下どもが玉織姫を奪いに攻め入ってきた。藤の方に仕える奥女中たちはてんでに薙刀や刀を持って応戦し、藤の方は経盛のあとを追って落ち延びてゆく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一谷嫩軍記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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