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丁 徳興(てい とくこう、1327年 - 1367年) は、元末の軍人。定遠(現在の安徽省定遠県)の人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。 ==生涯== 濠で朱元璋に付き従った。朱元璋はその容貌を気に入り、『黒丁』と呼んだ。 洪山寨攻略に参加し、百騎で数千の軍を破り、多数の衆を降らせた。滁州、和州を攻略し、青山に拠る盗賊を破った。 1355年6月、渡江して采石、太平を攻略した。分兵して溧水、溧陽を攻略し、全て先頭に立って戦った。 1356年2月、蛮子海牙の水寨を破り、方山の敵営で陳兆先を破った。3月、集慶で陳兆先を捕らえ、鎮江を攻略し、管軍総管に進んだ。金壇、広徳、寧国を攻略した。 1357年3月、常州攻略に参加し、左翼元帥に進んだ。寧国で反乱が起こり、胡大海に従ってこれを鎮圧した。6月に江陰、7月に徽州、石埭、10月に池州、樅陽を攻略した。江州、安慶を攻めて、全てに勝利した。 1358年8月、江陰の救援に向かい、江西付近の州県を攻略した。趙普勝が攻めてきたが、その攻撃をおさえた。10月、徐達、邵栄と共に宜興を攻めた。朱元璋は使者を遣わし 「宜興城の西は太湖口に通じている。張士誠軍はこの道が重要であり、それを断てば必ず勝てる」と伝えた。徐達は丁徳興を派遣し、太湖口を抑えた。その間に徐達と邵栄は宜興城を急攻し、城を落とした。この功により、鳳翔衛指揮使となった。朱元璋は「攻めて勝てなかったことはない。戦えば必ず勝つ虎将である」と褒め称えた。 1360年5月、陳友諒が龍江に侵攻した。丁徳興は石灰山で力戦し、勝利した。 1361年8月、安慶を回復し、12月、九江を攻略した。 1363年3月、安豊の救援に向かい、呂珍を破り、左君弼を敗走させた。7月、鄱陽湖の戦いに参加した。 1364年2月、武昌を攻略した。7月、廬州を攻略した。12月、湖南、衡州の諸郡を攻略した。 1365年10月、徐達に従い、淮東を攻略した。 1366年4月、浙西を攻めた。張士誠軍を旧館で破った。11月、湖州を攻略し、平江を囲んだ。その最中に亡くなった。都指揮使を贈られた。 1368年(洪武元年)、済国公を追封され、功臣廟に祀られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丁徳興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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