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七分の一の命事件 七分の一の命事件(ななぶんのいちのいのちじけん)とは、江戸時代における身分差別のむごさを伝える伝説である。「七分の一命」事件、とも呼ばれる〔上杉聰『これでわかった!部落の歴史-私のダイガク講座-』〕。 ==概要== 1859年(安政6年)2月、江戸山谷の真崎稲荷(現・東京都荒川区南千住の石浜神社)で山谷の若者と穢多の若者が衝突し、穢多が一人殺された〔喜田貞吉『被差別部落とは何か』所収「エタに対する圧迫の沿革」〕。 そこで穢多頭の弾左衛門は下手人の処刑を北町奉行(当時この地位にあったのは石谷穆清)に願い出た〔。すると奉行は「およそ穢多の身分は平民に比して七分の一に相当するから、今六人の穢多を殺して後、相当の処刑をなすべし」と宣告した〔。 これは名裁きとされ、弾左衛門も泣き寝入りした、というのが伝説のあらましである〔。喜田貞吉は「何ら標準のない乱暴なこの比量にも屈服しなければならなかった彼らの境遇の、憐れむべかりしは言うまでもないが、これを以て名裁判だなどと歓迎した当時の状態も、また憐れまずにはおられない」と評している〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「七分の一の命事件」の詳細全文を読む
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