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鏡勘平[かがみ かんぺい]
鏡 勘平(かがみ かんぺい、1928年7月15日 - 1977年末)は、日本の俳優である〔笑の泉, p.173, 178.〕〔山本, p.150-151.〕〔論叢33, p.69-71.〕〔''Kanpei Kagami'', インターネット・ムービー・データベース 、2015年3月4日閲覧。〕〔''鏡勘平''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年3月4日閲覧。〕〔日本映画情報システム 検索結果、文化庁、2015年3月4日閲覧。〕〔''鏡勘平''、日本映画データベース、2015年3月4日閲覧。〕。本名天野 克美(あまの かつみ)、独立系成人映画の喜劇映画で活躍したが〔〔〔〔、もともとは軽演劇の喜劇俳優であり、舞台役者時代の初期芸名は七味 十〇四(ななみ とんがらし)〔〔〔〔本田, p.358.〕。 == 人物・来歴 ==
=== シミキンの弟子として === 1928年(昭和3年)7月15日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔〔。 学歴等は伝えられていない。喜劇俳優としてのキャリアが始まった時期も不明であるが、第二次世界大戦が終了した1945年(昭和20年)8月15日には、まだ満17歳であった〔。戦後、鏡が弟子入りしたのは、「シミキン」として知られる清水金一(1912年 - 1966年)で、清水は、同年9月には戦時中に堺駿二らと結成した新生喜劇座を再結成し、同年11月には清水金一一座と名称を改めている〔清水金一 、コトバンク、2015年3月4日閲覧。〕。鏡は、浅草公園六区の大勝館地下に中映が経営したストリップ劇場浅草カジノ座を根城に、七味 十〇四を名乗り、清水の弟子で若干先輩格の「ミトキン」こと美戸金二とコンビを組んだという〔〔。カジノ座の開業は1952年(昭和27年)11月23日である。当時のカジノ座には、船越英二の実兄・三島けん(本名・船越榮太郎、1922年 - 〔キネ旬, p.554.〕)らが出演し、幕間コントや軽演劇を行っていた〔。 1959年(昭和34年)8月に発行された雑誌『笑の泉』昭和34年8月号に掲載された『コメディアンの放談会 楽屋裏は花盛り』に、泉和助(1919年 - 1970年)、池信一、ミトキン、由起かおる、ドン杉田らとともに「七味十〇四」として参加し、生年月日等の紹介がなされている〔〔。同誌の発行された当時、鏡は満31歳になったばかりである〔。当時のカジノ座を知る本田靖春が『警察回り』(1986年)に記したところによれば、ミトキンとコンビを組んでいた時代の鏡は、「三木鶏郎の義弟」を自称していたという〔。1966年(昭和41年)10月10日には、師の清水金一が満54歳で亡くなっている〔。同年1月に公開された『浅草の踊子 濡れた素肌』(監督渡辺護、主演可能かづ子)は、浅草六区のストリップ劇場を舞台にした映画だが、同作のロケーション撮影を行った先がカジノ座であった〔渡辺護、『浅草の踊子 濡れた素肌』について語る 、渡辺護、2013年12月29日付、2015年3月4日閲覧。〕。同作の監督である渡辺護の撮影時の回想には、ミトキンは知人であり、その楽屋にも言った旨の記述があるが、鏡の固有名詞は出てこない〔。鏡の相棒のミトキンは、唐十郎の回想にもしばしば登場するように、当時の独立系成人映画やアングラ演劇との交流があった〔〔小林, p.108.〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鏡勘平」の詳細全文を読む
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