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七戸城(しちのへじよう)は、青森県上北郡七戸町に所在した日本の城。 中世から近世にかけての平山城で、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40mの丘陵に置かれた。 == 歴史 == 南北朝時代の南部政長の築城と伝えられているが、考古学的調査の結果からは14世紀後半の南部政光により築城されたと考えられている〔(上北郡七戸町)七戸町観光ガイド 〕。 天正19年(1591年)城主七戸家国は九戸政実の乱で共に九戸城に籠城、滅亡した。翌20年(1592年)「諸城破却書上」に「糠部郡之内 七戸 平城 破 信直抱 代官 横沢 左近」とあり、城は破却されたが、津軽に対する配慮から闕所地の七戸領は浅水城主南部信義の三男南部(南)直勝に与えられ、後に七戸氏の名跡を継がせ2,300石を領知し家老職を世襲した。 三代目重信は南部氏27代、 盛岡藩初代藩主南部利直の五男で、寛文4年(1664年)に本家29代、第三代盛岡藩藩主を継承、藩の直轄地となり城内に代官所が設置され、陪臣も南部家直臣に昇格し七戸御給人と称された。 元禄 7年(1694年)重信の六男政信は、盛岡藩5代藩主 南部行信は5,000石を内分され幕府旗本寄合席として別家を立てる。 文化元年(1804年)8月、幕命による「郷村仮名付帳」の作成に際し、野辺地・七戸代官所が城郭に次ぐ「要害屋敷」と書き上げ幕府の承認を得た。 文政 2年(1819年)五代南部主税信鄰(麹町候)は、盛岡藩11代藩主南部利敬から6,000石を加増され11,000石の大名に列する。 安政 5年(1858年)嫡子信誉 は北方警備の功績により、城主格大名に昇格するが築城に至らなかった。 七代 南部信民は戊辰戦争に際し、奥羽越列藩同盟に参加し敗戦、家督を 南部信民 に譲り隠居する。 明治 2年(1869年)に、七戸藩が創設され、南部信民に七戸知藩事に任じられ、藩庁がここに置かれた。 明治 6年(1873年)に、廃城と決まった。 昭和16年(1941年)12月13日に国の史跡に指定された。現在は、柏葉公園として整備されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「七戸城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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